横浜の川を歩く13 大岡川②(中流域)

 

大岡川は,延長約14kmの二級河川だ。円海山を源流とし、上大岡で日野川と合流して伊勢佐木町、野毛町、桜木町など、横浜市の中心部を通って横浜港に注ぎ込んでいる。

今回は大岡川中流域を、上大岡から出発して栗木まで歩いてみた。

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上大岡駅前商店街の裏を流れる大岡川。菖蒲が群生し、鯉のぼりが下がっている。数年前までは200mほどの流域全面に鯉のぼりがひるがえり、上大岡の名物だったが、ずいぶん規模が小さくなった。

 

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上大岡は山あいの狭い地域で、もともとは捺染業が盛んな職人の町だったが、横浜駅を出発した京浜急行の特急が最初に停車する上大岡駅があり、幹線道路の鎌倉街道が通る交通の要衝だったこともあって、1981年に策定された「よこはま21世紀プラン」で副都心に選定され、再開発が進められた。現在は横浜のベッドタウンとして発展している。

京浜急行上大岡駅の駅メロディは、ゆずの「夏色」だ。上りホームではサビ、下りではAメロが流れる。

 

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大岡川のほとりに鎮座する青木神社。寺社の情報を調べるときにとても便利なサイト「猫の足あと」には、新編武蔵風土記稿等の資料を引用して

青木神社の創建年代等は不詳ながら、もと多々久之郷六箇村(久保、最戸、中里、弘明寺、井土谷)の総社だったといい、<中略>天明6年(1786年)の大岡川の大洪水により、大岡川の流れが変わり社殿が上大岡側に取り残され、今でも大久保2丁目は青木神社の社地だけが川を越して残されたと言われています。

と記されている。

 

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上の地図をご覧いただきたい。大岡川を町の境と考えれば、青木神社の住所は上大岡西であるべきところだが、神社庁のウェブページには、横浜市港南区大久保2-1-11と記されている。つまり、オレンジの実線で区分した町割りになっているのだ。川の氾濫によって流路が移動し、川の両岸に同じ町名が残る事例は、多摩川の二子、丸子などいくつか思い浮かぶが、ここも同じなのだろう。青木神社は大岡川左岸六村の総社だったので、上大岡地区の住民に管理を任せるわけにいかなかったことが、町名の残った理由だと推察する。

 

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青木神社から250mほど上流に歩くと、大岡川日野川の合流地点がある。 右が日野川で、奥から手前に流れているのが大岡川だ。

 

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横浜刑務所前の曙橋から見た大岡川。支流の日野川より流れが細い。 

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横浜刑務所の向かいに鎮座する笹下稲荷神社。地域住民の繁栄と、横浜刑務所の無事安泰を祈願している。小さい祠だが、彫刻に惹きつけられた。木鼻と呼ばれる、柱から飛び出している獅子が、手のひらサイズでかわいい。一見の価値ありだ。

横浜刑務所を撮影していたら、警備員に制止された。建物は撮影禁止なので、紹介できないのが残念である。

 

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笹下釜利谷道路沿いに、鰻井戸がある。案内板の記述を要約すると、

鎌倉時代の話である。北条実時が病に倒れ、療養したが回復しないので如意輪観音に祈ったところ、夢枕に観音が現れ、実時に語りかけた。この地から西北に二里ほど行くと井戸がある。井戸には二匹の霊験あらたかな鰻がいるので、この水を汲んで服用すれば病は治る。実時はさっそく使者をつかわしてこの水を持ち帰らせ服用したら、たちどころに快癒したそうだ。それが、この井戸なのだろう。

北条実時は、金沢文庫を創設した教養人として知られている。

 

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ここは大岡川笹下取水庭だ。大岡川流域を洪水から守るため、日野川大岡川の水を根岸湾に放流する大岡川分水路の途中にある。上の写真で、左から奥の水門に向かって流れているのが大岡川だ。水門は水面の高さまで開いていて、川はゆるやかに流れている。

大岡川分水路については、詳細が神奈川県のウェブページに掲載されている。

 

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手前の大岡川が増水すると堤防を越えて溢れだし、奥に見えるトンネル(大岡川分水路)に流れ込む。

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トンネル側から見た取水庭。大岡川はその奥、左から右に流れている。中央が分水路で、日野川から地下を抜け、大岡川の下をくぐって流れ出している。

 

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大岡川から200mほど離れた高台には、笹下城の本丸跡といわれる場所がある。笹下4丁目にある成就院というお寺の墓地のあたりだ。上大岡までを一望することができ、城を築くのにふさわしい立地だ。笹下城について解説すると長くなるので、横浜市のウェブサイトをご覧いただきたい。

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大岡川支流の左右手川(そうでがわ)との合流地点。鬱蒼としてわかりにくいが、左上から右下に大岡川が流れ、右上から左右手川が合流している。

 

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左右手川は、大岡川との合流地点からわずか450mで暗渠になる。源流は円海山に近い、2km以上離れた峰バス停あたりらしい。

 

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茅葺き屋根がゆかしい栗木(くりぎ)神社。境内の石碑には「徳川時代で村の鎮守として村民の崇敬をあつめ、明治初年に御社号日枝神社と号し、明治初年村社に列せられた」と刻されている。

 

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川の上を走るのはJR根岸線だ。大岡川となじみのある電車といえば京浜急行を真っ先に思い浮かべるが、大岡川と交差しているのは1か所だけ。根岸線は、ここと桜木町駅付近の2か所で交差している。ちなみに、いちばん交差しているのは横浜市営地下鉄で、4か所である。通っているのは、もちろん川の下だ。

(2021年5月記)

横浜の川を歩く14 大岡川③(下流域)

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 大岡川は、延長約14kmの二級河川だ。円海山を源流とし、上大岡で日野川と合流して伊勢佐木町、野毛町、桜木町など、横浜の中心部を通って横浜港に注ぎ込んでいる。

今回は、横浜発展の基礎を築いた旧吉田新田の起点である日枝神社から河口までの、下流域をレポートしたい。

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 左が大岡川、右は分流の中村川だ。吉田新田は大岡川中村川に囲まれた地域で、この分岐を頂点とした釣鐘の形をしている。だから、ここが吉田新田の起点になる。吉田新田については、小学校4年生が学習する教材になっているほど、横浜では有名な歴史遺産だ。

吉田新田については、横浜市南区の南吉田町町内会が作成しているブログでわかりやすく紹介されているが、掲載されている「吉田新田の大堰」がこの場所なのだろう。

吉田新田ができるまで - 南吉田町町内会

 

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大堰があった場所の近くには、日枝神社と堰神社が建立されている。日枝神社は、吉田新田住民の守護と五穀豊穣を祈念して、吉田勘兵衛が寛文13年(1673)に建てた。日露戦争で勝利したことを記念して奉納された立派な狛犬が目をひくが、お約束のコロナマスクをしていた。
堰神社の創建年代は定かではないが、水に関する一切を守護する神として、大堰の傍らに祀られている。堰と咳が同音であることから咳の病に霊験あらたかであるとされ、今でも参拝者が絶えないそうだ。

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僧侶が使用する錫杖(しゃくじょう)を連想させる親柱が印象的な道慶橋。中村川との分岐点から下流へ670mの付近だ。

横浜市関東大震災によって壊滅的な打撃を受けたが、その後昭和2年から4年にかけて、新たな橋が次々と完成した。大岡川下流には13の橋が架けられ、総称して震災復興橋と呼ばれている。8橋が現存しており、道慶橋もそのひとつだ。中村川との分岐点から下流に向かって順に、山王橋、一本橋、道慶橋、太田橋、黄金橋、旭橋、長者橋、宮川橋である。

道慶橋親柱の飾りは1989年に制作された。作者は彫刻家澄川喜一で、彼は一本橋の欄干も設計している。

(出典:web「関東大震災の跡と痕を訪ねて 今に残る震災復興橋(その2)」)

道慶橋の脇に、道慶地蔵尊が祀られている。碑文には、「明暦元年(三百二十年前)相模国久良岐郡太田村字前里耕地(現前里町三ノ六五)にあった渡川口に雲水僧道慶師(出生地不詳)が立寄り附近住民の難儀を見聞し之を救わんと同所に祀ある地蔵尊に草庵をむすび日夜地蔵尊に祈願して托鉢を重ね幾多の困難辛苦の末遂に万治元年独力にて橋を造り両岸住民の難渋を救った。道慶師没後その遺徳を偲び両岸の住民有志相計り同橋を道慶橋と名づけ 師の信仰せる地蔵尊を道慶地蔵尊としてお守りし今日に至る」と刻まれている。

親柱に取り付けられた錫杖頭の輪っか(遊環)を揺すると金属が打ち合い、おごそかな音色が響く。聴く者を敬虔な気持ちにさせる、深い音色だ。

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伊勢崎警察署黄金町交番の屋根の上で猛禽類のマスコットが羽を休め、大岡川を見下ろしている。京浜急行で通勤・通学している方々にはおなじみの光景だ。この鳥は伊勢佐木警察署のマスコットキャラクターで、「イセタカ君」という名前である。神奈川県内の交番でモニュメントが設置されているのは、黄金町交番だけだそうだから、珍百景といえよう。「はまれぽ.com」の「京浜急行線の車窓から見える、ビルの屋上にあるワシの置物の正体は?」という記事ではイセタカ君の由来を深掘りしていて、とても面白い。私も、この記事でイセタカ君のことを知ることができた。興味のある方はぜひアクセスしていただきたい。

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末吉橋親柱の飾り。この橋も復興橋だったが、平成19年(2007)に架け替えられた。大岡川下流域には18の橋が架かっており(人道橋を除く)、親柱装飾にも意匠が凝らされているから、橋のデザインを見て歩くだけでも楽しい。

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黄金橋のたもとには日ノ出湧水がある。案内板には「野毛山の裾野に位置する日ノ出町周辺は、自然の湧き水に恵まれた地域で、明治の初めごろから、湧き水を利用した民間の給水業者が活躍し、横浜港に寄港する船舶に飲料水を提供していたと言われています」と書かれている。

野毛山の標高が47.3mというと低い印象だが、裾野が0m地帯だから、それなりの高さがある。周辺の高台も含めると1.5km×1.5kmもの広さがあり、その保水力はかなりのもので、山の反対側にあたる掃部山(かもんやま)からの湧水は「ぶらタモリ」でも紹介された。蒸気機関車や船舶用の水としても使用され、「横浜の水は赤道まで行っても腐らない」といわれたそうだ。

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大岡川は桜の名所としても知られている。遠くに見えるのは長者橋で、復興橋のなかでもひときわ美しいアーチ橋だ。

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 大岡川からは少し離れるが、長者橋と旭橋の中間点から70mほど伊勢佐木町方面に進むと、清正公堂がある。武勇で知られた加藤清正は開運の守護神(勝負の神様)として庶民の崇敬を集めており、野毛の場外馬券売り場から近いこともあって、競馬好きの聖地として知られている。「開運 勝馬」の看板が勇ましい。

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吉田新田を開墾したときに掘られた井戸が復元されている。京浜急行日ノ出町駅を降り、長者橋を渡った大岡川のほとりから神奈川銀行、清正公堂などがある一帯は、吉田勘兵衛の邸宅があったところで、この井戸は、その中央付近に掘られていた。200年にわたって、付近住民の飲料水となっていたそうだ。

第二次世界大戦で日本が敗れたあと、この場所は進駐軍に接収され、井戸も埋め立てられた。この井戸は、平成20年に復元されたものだ。

大岡川の対岸には、股旅物(またたびもの)の小説家として有名な長谷川伸の記念碑がある。若い方はご存じないかもしれないが、「一本刀土俵入」「沓掛時次郎」「瞼の母」「関の弥太っぺ」などの作品群は、舞台はもとより映画化され歌謡曲でも歌われ、昭和世代の人たちにはよく知られていた。上記の4作品は小林まこと氏がマンガ化し、講談社から出版されている。

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野毛の都橋商店街ビルを、大岡川方面と道路側から撮影した。

大岡川に沿って弧を描いた独特な形の建物で、平成28年(2016)、横浜市の歴史的建造物に認定された。戦後建築物の登録第1号である(「横濱新聞 33号」横浜市都市整備局都市デザイン室)。神奈川県立音楽堂や旧横浜市役所などの有名な建物をさしおいて登録されたあたりに、横浜市のこだわりを感じる。現在も、約60の店が営業し、野毛の名物となっている。

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横浜を代表する野毛商店街も、午前中は人通りがまばらだ。昼間から焼酎片手に、おじさんが焼き鳥をくわえながら競馬中継を見ているというイメージが強いが、最近は若者の街に様変わりしているらしい。

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桜木町駅を発車し、関内駅に向かう根岸線電車が川の上を通っていく。

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大江橋から河口を望む。桜木町歩道橋と弁天橋が見える。右岸の巨大なビルは、横浜市役所だ。関内の旧庁舎から2020年に移転した。

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市庁舎横の歩道からは、ランドマークタワーが見える。この付近にはワシントンのポトマック河畔から里帰りしたシドモア桜、横浜銀行集会所建物基礎、石造りの下水口、石積み護岸、航路標識管理倉庫基礎など、たくさんの歴史的遺物などを見ることができる。

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北仲橋からの眺め。大岡川は左右に分かれているように見えるが、この北仲橋が大岡川の終点であり、ここから先は海である。左の分岐は汽車道の第一号橋梁の下を通って国際橋、女神橋の先から横浜港に注ぐ。右は万国橋、新港橋を抜けて、豪華客船などが停泊する大桟橋に至る。

写真の右端には、2021年の4月から運行を開始するロープウェイが見えている。桜木町駅からワールドポーターズまでを約5分でつなぐ。水面に浮かぶバスのような乗り物は、みなとみらいの景色を陸と海の両方から楽しめる水陸両用バスだ。

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汽車道にはレールが残されている。桜木町駅の手前から分岐して横浜港駅まで続いていた廃線路をそのまま利用し、公園として整備した。ナビオス横浜をくぐった先に見えている赤レンガ倉庫の横に、横浜港駅があった。

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一般的には、ここが大岡川のいちばん下流と認識されている。2021年3月31日に全面開通した女神橋が見える。歩行者専用の橋だ。

当初は2020年7月の開通を予定していたが、橋桁が低くて観光船などが通れないことが判明し、橋をかさ上げしてスロープなどを作り直したため完成が遅れた。名前の由来は、正面に見えるヨコハマグランドインターコンチネンタルホテルの最頂部に飾られた女神像にちなんでいる。(ヨコハマ経済新聞2021.3.31)

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女神橋から上流を撮影した。前面にかかる橋は国際橋だ。ランドマークタワー、観覧車、帆船日本丸などが一望にできる、港ヨコハマを象徴する場所だ。みなとみらいの名物企画「ピカチュウ大量発生チュウ」では、観覧車がピカチュウになった。

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客船ターミナルのぷかり桟橋と横浜ベイブリッジ、そして土木遺産の横浜ハンマーヘッドクレーンが見える。

大岡川は観光地ヨコハマの中心部を流れているので、見どころ満載だ。ごくかいつまんで紹介したが、それでも長いレポートになってしまった。このへんで終了としたい。

(2021年4月記)

 

 

横浜の川を歩く12 大岡川①(源流域)

地図にのある場所をクリックすると、写真が表示されます。

 

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大岡川は、延長約14kmの二級河川だ。円海山を源流とし、上大岡で日野川と合流して伊勢佐木町、野毛町、桜木町など、横浜市の中心地を通って横浜港に注ぎ込んでいる。

見どころの多い川なので何回かに分けて紹介するが、今回は源流域をレポートする。

上の写真は、「大岡川源流域」の表示杭が立っているあたりだ。このへん一帯は入り組んだ谷に囲まれており、幾筋もの小さな流れが集まって大岡川の源流をなしている。

 

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細い流れが集まり、少しずつ水量を増していく。

 

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おおやと広場。このあたりは「大岡川源流域小川アメニティ」で、ところどころ休憩できる場所がある。

 

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アブラハヤがたくさん泳いでいた。

 

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大岡川円海山が源流とされているが、金沢自然公園のしだの谷からの流れも、遊水池を介して大岡川に流れ込んでおり、ここも源流のひとつといっていいだろう。

 

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シダの生い茂る「しだの谷」からの流れは、横浜横須賀道路釜利谷ジャンクションの下を通って遊水池に続いている。

 

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遊水池からの開口部。ここから先の流れは、源流と呼ぶにふさわしい趣がある。

 

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小川のほとりにはスミレが群生し、歩く人の目をひきつける。

 

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右は円海山からの源流で、左が遊水池からの流れ。ここが合流地点だ。

 

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椿の向こうに、横浜横須賀道路の高架が見える。

 

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「氷取沢(ひとりざわ)小川アメニティ」の遊歩道。

 

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小川アメニティを抜けると、開けた場所に出る。氷取沢農業専用地区で、市民菜園などもある。菜園の奥に、トイレが設置されている。秋にはコスモスが咲いて、華やかな景色になる。

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円海山を望む。山桜やソメイヨシノが満開だ。

 

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農地のあたりから、護岸が整備されている。右の建物は、氷取沢農業専用地区のための、かん水施設だ。

 

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氷取沢神社の社殿側から、表通りの笹下釜利谷道路を望む。大岡川は、神社の境内を右から左に流れていく。

氷取沢(ひとりざわ)という耳慣れない地名には、特別ないわれがあるのだろうか。江戸時代に著された「新編武蔵風土記稿」の編者も興味を持ったようで、くわしく考察している。煩雑な記述なので、わかりやすくまとめてみた。

「氷取沢村は、往古には長沢村と呼ばれていた。村内宝生寺の僧が話すところによれば、後醍醐が天皇であった年の6月(旧暦なので、真夏だ)に深山から氷を取って北条高時に献上したところ、高時はこれを喜び、村の名を氷取沢村に改めたそうだ。しかし、この説には信憑性がない。なぜなら、後醍醐天皇より100年ほどさかのぼる吾妻鏡の建暦3年9月22日条に「火取沢」の記述があり、この地はすでに火取沢と呼ばれていたのだ。火と氷は音訓が同じなので、両方の漢字が適宜用いられていたのだろう」と書かれている。

ウェブサイト「はまれぽ.com」のレポート「磯子区氷取沢町の名前の由来は?」では、かつてこの辺りでは砂鉄が取れたため鍛冶場があり、火取沢の“火”はこのことに関係しているという説を紹介している。

いずれにしても氷取沢の由来は、伝承としてとらえておくのが無難だろう。

 

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氷取沢神社の参道前には、笹下釜利谷道路が通っている。港南区上大岡と金沢文庫金沢八景方面をつなぐ幹線道路だ。大岡川は、この道を縫いながら流れていく。

ここから先の上大岡までは、「横浜の川を歩く13 大岡川②」でレポートしたい。

(2021年3月記)








 

 

横浜の川を歩く11 帷子川①

帷子川(かたびらがわ)は横浜市旭区を源流とし、横浜駅東口までの約17.3kmを流れる二級河川だ(「横浜の川」横浜市道路局河川部)。鶴見川大岡川と並ぶ、横浜を代表する河川である。

今回は、帷子川の源流から鶴ヶ峰までをレポートする。また、支流の矢指川についてもふれてみたい。

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遊歩道に植えられた桜はまだ開花していなかったが、コブシやボケが満開で、単調な景色が続く帷子川上流の散策を楽しませてくれた。

 

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帷子川の源流は、横浜市旭区の若葉台団地付近にある。団地の西側、星槎高等学校の正門前の道路を渡って、若葉台西バス停横の階段を下りるとすぐだ。そこに「帷子川水源」の表示板が立っているが、ほんとうの源流は、もっと先にあるようだ。地図を見ると、流れは100m以上先まで続いている。しかしながら水源地点には立ち入ることができないため、場所を確認することはできなかった。

 

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画面右上に見えるレンガ色の建物は、有料老人ホーム「トレクォーレ横浜若葉台」だ。水源の表示板はその手前にあるが、そこが川の始点ではなく、もっと上流(手前)まで川は続いている。右下にフェンスが見えるが、そこが河道である。
若葉台団地の高層住宅群が見える。

 

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源流から500mほどは遊歩道で、上川井町小川アメニティと名づけられている。

 

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大貫谷戸水路橋(おおぬきやとすいろきょう)だ。源流から900mほど下流に位置している。帷子川は、道路の下を左から右に流れる。

水路を支える橋のことを水路橋という。相模湖から送られてくる水道用水を川井浄水場から鶴ヶ峰配水池まで導水する7kmの区間に、3ヶ所建設されている。完成は昭和27年だ。自然の水流を利用し、100m進むと6cm下がるように設計されている水路なので、高さを維持するため谷をまたぐときは水路橋が必要になる。中でも一番長い橋が大貫谷戸水路橋で、延長414m(鉄鋼部分306m)、高さが23mあり、この規模の水路橋は全国的にも珍しいそうだ(横浜市水道局・川井浄水場が設置した表示板から抜粋)。

とても有名な水路橋だから、ウェブページにたくさんのレポートが掲載されている。興味のある方は、そちらを参照していただきたい。

 

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帷子川は、近年まで暴れ川として知られていた。そこで、河道をまっすぐに付け替えるショートカット工事や分水路の建設が精力的に行われたが、完了したのは鶴ヶ峰から河口までの区間であり、そこから上流については、いまでも工事が継続されている。横浜市公共事業評価委員会の資料「 都市基盤河川帷子川河川改修事業(川井本町地区)」によれば、令和15年に改修工事が完成する予定だ。

上の写真は学校橋付近で、まだ本流とつながっていない。

下の写真は誠心会神奈川病院付近で、まだ着工していない。川は病院が建っている丘の下を流れている。

 

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帷子川は、水道道(すいどうみち)を何度か縫うようにして、蛇行しながら流れていく。水道道は、道志川の水を横浜の野毛山配水池まで運ぶ、歴史ある道路だ。

横浜が近代水道発祥の地であることはよく知られており、横浜市のウェブページでも紹介されている。

横浜水道のあゆみ(概要) 横浜市

「水道みち「トロッコ」の歴史」案内板に、「この水道みちは津久井郡三井村(現:相模原市緑区三井)から横浜村の野毛山浄水場横浜市西区)まで約44kmを、1887年(明治20年)わが国最初の近代水道として創設されました」と記載されている。明治18年の着手からわずか2年で、44kmもの区間に水道管を敷設する工事を完成させたのだから驚く。導水ルートにレールを敷き、トロッコで水道管や資材を運搬したのだが、この道が今でも水道道と呼ばれ、横浜市民に親しまれている。

帷子川にかかる五反田橋(横浜市旭区川井本町)には軌道のレールが保存され、当時の面影を偲ぶことができる。

 

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改修工事中。左に蛇行しているのが現在の河川。ガードレールに沿って川をまっすぐにする工事が行われている。100mほど完成したが、まだ本川につながっていない。

 

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中原街道は、東京都千代田区虎ノ門を起点とし、神奈川県平塚市立中原小学校(中原御殿跡)までを結ぶ街道である。徳川家康は、この街道を鷹狩りや駿府への往来などに利用したが、そのさいの宿泊場所として中原御殿を建てた。中原街道には、他にも小杉御殿と神奈川御殿の存在が史料で確認されている。

中原街道が帷子川と交差するこの場所(横浜市旭区下川井町)には御殿橋という橋がかかっている。「新編武蔵風土記稿」に「旧跡 御殿場。下川井村のうち、東の方中原道の傍にあり。むかし東照宮江戸より相州高座郡中原御殿へ渡御ありしとき、しばしが程此所におわしまし、お茶を立てられしと云う」(句読点などを適宜補記)と書かれており、御殿があったかは定かでないが、休憩施設はあったのだろう。橋の名前は、この伝承にちなんでつけられたそうだ。

 

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御殿橋は水位観測地点になっており、水位の情報とライブカメラ映像が横浜市の水防災情報サイトで常時公開されている。

水位観測地点詳細情報(現在)

 

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清来寺は旭区今宿南町にある浄土真宗の寺院だ。このお寺には「夏野の露」と云う巻物が伝えられている。畠山重忠の武勇をたたえるため、住職の宥欣が近在の人々に呼びかけ、70余首の歌にして嘉永5年(1852)に完成した巻物だ。この後、畠山重忠は地元の人たちによって手厚く祭られるようになった。(「水辺からのレポート 横浜帷子川を行く」より)

 

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帷子川は清来寺から1.4kmほど下流二俣川と合流し、鶴ヶ峰を抜けて河口へ向かう。合流地点から星川までは「横浜の川を歩く10 帷子川②」でレポートしているので、そちらをご覧いただきたい。

運良くダイサギコガモを見つけることができた。地元の人の話では、カワセミもいるそうだ。

次に、帷子川の支流である矢指川(やさしがわ)について簡単にレポートしたい。

 

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矢指川は、神奈川県内広域水道企業団(横浜市旭区矢指町1194)付近を水源域とし、矢指市民の森でいくつかの流れと合流しながら保土ヶ谷バイパスの下を抜けて帷子川に流れ込んでいる。帷子川との合流地点から540m上流までが準用河川で、その先は普通河川になる。

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矢指市民の森は菜の花畑が美しいことで知られており、今回のレポートも満開の時期に合わせての訪問だった。矢指川は、畑の横を流れている。

 

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中原街道保土ヶ谷バイパスが交差する手前で、中原街道の下を流れている。道路の左側は、相鉄バスの旭営業所だ。

この場所に3基の石塔が建っている。左から享保15(1730)年の庚申塔、正徳2(1712)年の六十六部高顕所、明治4(1871)年の神馬祭記念碑だが、青面金剛が彫られた庚申塔については、こんな昔話が伝わっている。

「一匹の狸が中原街道を歩いていると、恐ろしい顔をした青面金剛が睨んでいるではありませんか。それを見た狸は、これは一大事と遠回りをしました。そして僧に化けて、矢指谷戸の桜井さんに一夜の宿を頼みました。桜井さんのご主人は、可愛そうな旅の僧だと思い、気持ちよく迎え入れたということです。狸は主人の手厚いもてなしに感動し、掛け軸に絵を書いて置いて行きました。桜井さんは、今でもこの掛け軸を大切に持っているそうです」(旭ガイドボランティアの会ウェブページより)

 

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帷子川と合流する。正面が矢指川だ。

「帷子川①」はここまで。長文にお付き合いいただき感謝します。

(2021年3月記)

 










 

 

 

 

 

横浜の川を歩く10 帷子川②

帷子川(かたびらがわ)は横浜市旭区を源流とし、横浜駅東口までの約17kmを流れる二級河川だ(「横浜の川」横浜市道路局河川部)。鶴見川大岡川と並ぶ、横浜を代表する河川である。

今回は、帷子川の中流域である鶴ヶ峰から星川までを、支流の中堀川・くぬぎ台川・新井川・二俣川菅田川とあわせてレポートする。また、帷子川分水路についてもふれてみたい。

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上川井付近を源流とする帷子川は、 鶴ヶ峰駅入口交差点の手前で二俣川と合流し、「帷子川捷水路トンネル」に入る。100m余のトンネルを抜けて再び姿を現した。蔦のカーテンでよく見えないが、直径10mほどのトンネルだ。

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鶴ヶ峰地区を中心とする帷子川周辺は、畠山重忠の伝説が多く残っている。それは、新編武蔵国風土記稿に「旧跡古戦場 鶴ヶ峰ノ辺ヲイヘリ元久二年畠山次郎重忠鎌倉ヨリ討手北條相模守ト合戦シテ討死セシ所ナリ」と書かれているとおり、ここが畠山重忠終焉の地だったからだ。フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』によると、

「畠山 重忠(はたけやま しげただ)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。鎌倉幕府の有力御家人源頼朝の挙兵に際して当初は敵対するが、のちに臣従して治承・寿永の乱で活躍、知勇兼備の武将として常に先陣を務め、幕府創業の功臣として重きをなした。しかし、頼朝の没後に実権を握った初代執権・北条時政の謀略によって謀反の疑いをかけられて子とともに討たれた。」と解説されている。

また、「【特別展】畠山重忠 -横浜・二俣川に散った武蔵武士-」(横浜市歴史博物館)には、

畠山重忠は今ではほとんど忘れられた存在だが、「吾妻鏡」で清廉潔白、誠実、豪傑という評価がなされ、鎌倉時代の「畠山物語」をはじめ、お伽草紙、歌舞伎、浄瑠璃、浮世絵などで取り上げられ、重忠伝説は各地に伝えられた。1都1道1府26県に、200カ所を超えるゆかりの地があるとされている。
近代になると、明治政府の方針で仁義忠孝の教えを説くために畠山重忠の物語が「幼学綱要」に取り上げられ、児童・国民に広められた。

と述べられている。

「水辺からのレポート 横浜帷子川をゆく」によると、この地域では、江戸末期まで畠山重忠の事績について関心が薄かったらしい。しかし「嘉永5年(1852)、今宿村清来寺の住職宥欣は重忠の武勇を称えて「吾妻鏡」の内より重忠に関係のある箇所を仮名書きにし、あわせて近在の人々に呼びかけ、この地に果てた重忠追悼の和歌70余首を「夏野の露」という巻物にまとめている。この後、重忠は多くの人々によって手厚く祭られるようになった。」そうだ。

昭和2年(1927)刊の栗田勇著「畠山重忠」には、現在知られている史跡などがすべて載っているから、この頃には畠山重忠ゆかりの地として有名だったのだろう。いくつかを紹介する。

首洗い井戸と書かれた杭が、旭区役所の裏手にある。旭区観光協会の説明板によると、「重忠公の首を洗い清めたといわれる井戸があった」そうだ。

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ほぼ同じ場所にあるのが首塚。重忠公の首が祭られたといわれている。

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駕籠塚。帷子川から少し離れた丘陵地、鶴ヶ峰配水池の裏にある。碑文によると、重忠の身を案じた内室が秩父から駆けつけたところ、この地で悲報に接して悲嘆慟哭し、駕籠に乗ったまま死去した。その霊を弔うため、塚を築いたそうだ。

畠山重忠関係の史跡・伝説は、他に六ツ塚・霊堂(薬王寺境内)、すずり石水、隠れ穴、矢畑・越し巻き、さかさ矢竹、万騎が原、越し場、鐘楼塚、馬頭観音がある。(「旭区郷土史」昭和55年)

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捷水路トンネルから下流方面を望む。右下がりの橋は、鶴ヶ峰バスターミナルに通ずるバス専用道路。

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かつての帷子川は、氾濫をくり返す暴れ川だった。そこで横浜市は洪水対策として、帷子川の河道をまっすぐに付け替えるショートカット工事を昭和45年から56年にかけて行った。それにより、水の流れなくなった河道がいくつか生じた。(「かながわの川(上) 神奈川県高校地理部会編」1980年 神奈川新聞社

この旧河道を利用して、「帷子川親水緑道」「鎧の渡し緑道」「田原橋公園」「逆田橋公園」などの公園が整備されている。冒頭に掲げたgoogle地図で確認していただきたい。整備前の帷子川が激しく蛇行をくり返していた様が見て取れるだろう。

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鶴ヶ峰の雑踏を抜けて「帷子川親水緑道」に足を踏み入れると空気感が変わり、清々しい気分になる。別世界だ。

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目の前をアオサギが通り過ぎていく。

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吊り橋が架かっていた。

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緑道を抜けた先の住宅街だが、ここもかつての河道だ。馬蹄形にカーブしている。

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帷子川に戻ると、コサギが羽を休めていた。集団で5羽いるのは珍しい。

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帷子川分水路が見えてきた。国道16号線下白根橋からトンネルで横浜駅西口付近の派新田間川(はあらたまがわ)に接続し、帷子川の水を横浜港へ放流する分水路で、治水対策のために整備された。トンネル区間の長さは5,320mになる。詳しくは、神奈川県のホームページをご覧いただきたい。

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分水路から400mほど下流の橋には、かつて暴れ川だった頃の名残だろうか、浮き輪が備え付けられていた。川の先に見えるのは、相模鉄道の高架だ。

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鷲山橋から環状2号線を撮影。陣ヶ下渓谷からの流れが高架の下で合流しているはずだ。

鶴ヶ峰から星川あたりまで、昭和20年代後半から40年代にかけて「横浜スカーフ」で知られる捺染(なっせん)業が盛んだった。生地に染め付けた染料などを洗い落とすため、帷子川が利用されたのだ。昭和20年代までは、染め付けた生地を川に晒す風景が見られたという。その昔、相鉄線沿線にある小学校の社会科見学先は、捺染工場が定番だった。しかし、当時を物語る痕跡は、もはやどこにもない。「横浜捺染―120年の歩み」(日本輸出スカーフ捺染工業組合 1995年)で、繁栄の様子を偲ぶのみである。

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星川駅を過ぎたところにある川辺公園。奥に見えるのが帷子小学校で、右岸には保土ケ谷公会堂・図書館がある。保土ケ谷区民は、帷子川といえばこのあたりを思い浮かべるだろう。

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ここからは、支流を紹介したい。まずは、中堀川だ。「神奈川の川(上)」によれば、白根大池の水を帷子川に流すために築かれた川で、宝永4年(1707)に下白根村の名主市左衛門が中流域約540mをまっすぐに改修したそうだ。
だから、源流は上白根大池公園と考えてよいだろう。

全長約3,000mのうち、白根神社の手前から帷子川と合流するまでの850mが二級河川に指定されている。

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紅葉が美しい上白根大池公園の東北端に源流がある。

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中原街道の下を抜け白根通りに沿う道は「中堀川プロムナード」と名付けられ、お年寄りの散歩道になっているようだ。

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2kmほど下流に、有名な「白根のお不動さん」がある。神仏分離令により明治3年に白根神社となったが、本尊は一寸七分の不動明王座像だ。八幡太郎源義家前九年の役で戦うとき、この座像を兜の中に納めて勝利した。その礼として、鎌倉権五郎景正に命じ堂宇を建立し祀ったのが、白根神社の前身である成願寺の起源と伝えられる。(「新編武蔵国風土記稿」より)

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境内には大滝、小滝と呼ばれる二つの滝がある。

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国道16号線の白根不動入口バス停あたりで帷子川と合流する。

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次に紹介するのはくぬぎ台川だ。全長1,190mで、準用河川に指定されている。相鉄線鶴ヶ峰駅から環状2号線に向かってまっすぐに伸びた道路が、鶴ヶ峯小学校の先で急な下り坂になっているが、下りきったところが、準用河川くぬぎ台川の始点だ。ここから先は暗渠になっている。実際は、この先も市沢や左近山方面に枝分かれしながら川は続いていて、神田(じんでん)公園も源流の一つなのだろうが、そこまで追っていくときりがないので、ひとまずこの場所を源流としたい。

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源流付近の風景。川は、新幹線の高架に沿って流れていく。ガードをくぐった左側には、鶴ヶ峰駅に続く急な上り坂がある。

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くぬぎ台川・帷子川の合流地点。西谷駅に近い、東海道新幹線のガード下あたりだ。

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新井川は全長が2,000m以上の川だが、そのうちの800mが準用河川となっている。「稲荷通り」バス停あたりから二股に分岐し、一方は新井小学校付近が源流であるが、今回はもう一方の源流を追ってみた。

横浜市旭区中白根四丁目4の外れ、「特別養護老人ホームさわやか苑」の手前が源流になる。全長2,400mほどだ。

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帷子川と合流する300mほど手前で、帷子川分水路の上を流れている。川の上を流れる川だ。不思議な光景である。

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新井川は、国道16号線の川島町交差点付近で帷子川に合流する。

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二俣川は旭区の中心地である相鉄線二俣川駅の下を流れる全長5,000mほどの普通河川だ。このあたりは起伏に富んだ地形であるため、毛細血管のようにたくさんの小川が二俣川に流れ込んでおり、源流を特定することができない。今回は、そのなかでも比較的距離が長い流れを源流と見立てて取材した。

ここは横浜市旭区善部町89あたり。前に見えるのは東海道新幹線のガードで、その南側になる。ガードの向こう側にも長さ1000mほどの小川があるが、横浜市の「だいちゃんマップ」によると、この流れは道路地下の雨水管につながっているように見えるので除外した。

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地上を流れてきた二俣川は、相鉄線二俣川駅の手前で暗渠となり、駅の下を400mほど進んで再び地上に姿を現す。

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相鉄線は、2019年11月にJR線と直通運転を開始した。これに先立ち、起点となる二俣川駅はその姿を一新した。以前の二俣川駅しか知らない人は、この写真を撮影している場所がどこか、見当もつかないであろう。渋谷駅と45分でつながる二俣川駅は、都心への通勤圏といっても過言ではないハブステーションに変貌したのだ。

しかし、駅を少し離れると、景色は40年前のままだ。旭区はそういう町です。

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二俣川は、鶴ヶ峰の旭区役所付近で帷子川と合流する。

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菅田川は、道路が渋滞することで有名な国道16号線梅の木交差点から菅田方面に1kmほど遡った、福生寺付近を源流とする川だ。帷子川までの全長でも1,600mほどの普通河川である。この先にも川らしきものはあるが、暗渠が多くて菅田川とのつながりがはっきりしないので、横浜市保土ケ谷区上菅田町714あたりを源流とした。

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菅田川は、暗渠となって帷子川に合流している。

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「帷子川② 鶴ヶ峰から星川まで」はこれにておしまい。長文にお付き合いいただき感謝します。

(2020年11月記)

横浜の川を歩く9 消えた川

横浜市の中心地である横浜駅から南太田駅石川町駅を頂点とするデルタ地帯は、かつて川が縦横に流れる水の町だった。そんな横浜の風景を変える契機となったのが、戦後の急速な都市化だ。陸上の交通整備が急務となり、昭和40年代から吉田川など4本の主要な川が埋め立てられ、鉄道や道路が建設された。その結果、江戸時代に吉田新田と呼ばれたこの地域では、明治以降主な川だけでも7つの河川が消滅した。

①派大岡川、②吉田川、③日ノ出川、④桜川、⑤富士見川、⑥新吉田川、⑦新富士見川である。上の地図に記した赤いラインをご覧いただきたい。他に小松川や名の知られていない水路もあったが、やはり埋め立てられた。

川の位置は、明治24年刊の「横浜真景一覧図絵」をもとにしてグーグルマップに書き込んだが、明治30年に開鑿された新富士見川など、この図絵に記載されていない川などについては、大正2年「最新横浜市全図」をもとにしている。どちらも「横浜市立図書館デジタルアーカイブ 都市横浜の記憶」で公開されている。

今回は、消えた7つの川に焦点を当て、現在の様子と、川の痕跡を探ってみたい。

このコラムは「川の町・横浜」(横浜開港資料館 2007年)のおかげで作成することができた。横浜の発展を見守り、消えていった川や橋について詳しく知りたい方は、この冊子が役に立つと思う。横浜市図書館で閲覧が可能だ。

 

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大岡川

この川が派大岡川と呼ばれるようになったのはいつか、よくわからない。明治以降の地図には一貫して「大岡川」(「大岡川筋」とも)と記載されており、昭和39年の地図も同様だ。本来の大岡川と区別するための行政上の呼称かもしれない。

江戸初期の吉田新田開発にともない入海が埋め立てられたとき、防潮堤によって海と隔てられた巨大な溜め池ができた。これが派大岡川の初期形態である。当初は、流れ込んだ海水を抜く役割があったのかもしれない。その後物資の運搬や増水対策のために利用された。

戦後の都市化に伴う人口の増加・交通量の増大に対応するため、昭和34年(1959)に現JR根岸線の建設が始まった。線路は派大岡川の上を並行するので川の一部埋め立てが開始され、川幅が狭くなった。引き続き高速道路や市営地下鉄の建設が決定し、工事が始まったことにより、昭和52年(1977)にすべて埋め立てられ、派大岡川は姿を消した。

①西の橋

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中村川に架かる橋。JR石川町駅から200mで、元町商店街や中華街にも近いのに裏通りの印象がぬぐえない。川の上を首都高速道路が通り、空が見えないからだろう。中村川は、この橋の下流から堀川と名前を変える。派大岡川もここが起点であり、川の町横浜にとって重要な橋だ。

今架かっているのは関東大震災後の大正15年(1926)に建造されたものだが、明治26年(1893)建造の西の橋が、中村川の南区役所付近に移設され、人道橋「浦舟水道橋」として活躍中である。

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西の橋の中村川寄りを起点とする派大岡川は、現在の首都高狩場線との分岐から横羽線と軌を一にして関内駅方面に流れていた。

 

②湊橋

橋の場所から関内方面に目を向けると、右手に横浜スタジアム、左手には旧横浜市役所が見える。首都高速道路横羽線は、横浜市立港中学校のあたりから地下に入り、派大岡川の流路を走り抜けている。青いネットの下が横羽線だ。

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高架はJR根岸線、左端の茶色い建物はJR関内駅だ。

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 ③吉田橋

かつて横浜で最も重要な橋だった。横浜は1859年(安政6年)に開港したが、外国人居留地を派大岡川の海側に設定し、吉田橋を築いてここを関門とした。この地域を「関内」と呼ぶのは、このことに由来している。

明治2年(1869)には日本最初のトラス式鉄橋として生まれ変わり、以来長く「鉄の橋」として親しまれたという(「川の町・横浜」)。現在の橋は5代目だが、トラス式鉄橋のデザインが使われている。

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④派大岡川終点

下を流れるのは大岡川だ。ここが派大岡川の終点であり、向こう岸は桜川の起点でもある。

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吉田川・新吉田川

横浜市営地下鉄関内駅阪東橋駅間は、大通公園の地下を走っている。ここはかつて吉田川と新吉田川が流れていた。明治6年(1873)に吉田新田の南一つ目沼約7万坪の埋め立てが完成したが、この事業と並行して日ノ出川、吉田川、富士見川が開鑿された。明治7年に作成された「第一大区横浜全図」には、これらの川が記載されている(「川の町・横浜」)。

「川の町・横浜」など公的な文献では、逢来橋から千秋橋まで(地図の②から①)を吉田川、そこから上流の中村川③までを新吉田川としている。新吉田川は明治29年(1896)に完成しているが、明治期に発行された地図を見ると、明治7年以降すでに上流まで開通しているように描かれている。この違いがよくわからないので、このコラムでは吉田川と新吉田川をひとくくりにして記述することにした。

川の終焉はどちらも一緒で、昭和47年(1972)に埋め立てられている。

 

①吉田川・新吉田川に架かっていた橋のレリーフ

 伊勢佐木長者町駅構内の壁面に「橋の詩」と名付けられたレリーフがあり、吉田川・新吉田川に架かっていた橋の銘板が飾られている。 

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②派大岡川との合流点

大岡川が流れていた場所から吉田川跡を望む。大通公園石の広場だが、石造りのステージは撤去され、現在はロダンの彫刻が飾られている。

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同じく大通公園水の広場

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③新吉田川と中村川の合流点

左が池下橋で、右奥かすかに見えるのが久良岐橋だ。手前を流れる中村川から分岐し、両橋の間をまっすぐ前方に流れていた。

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首都高速狩場線から阪東橋出口に降りる道路の下を流れていた。今は阪東橋公園になっている。

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日ノ出川と富士見川

吉田川・新吉田川と同時期の明治6年(1873)頃開鑿された。日ノ出川は中村川と吉田川をつなぐ全長約600m、富士見川は同じく中村川から吉田川を貫き、現在の中郵便局を通り若葉町あたりまで伸びる760mほどの運河だ。

「なか区歴史の散歩道」(横浜開港資料館)によれば、「日ノ出川と富士見川は排水路としての役割に特化しており、付近の住民たちは汚臭と交通不便とに悩まされていたという」。そして「富士見川は明治29年(1896)に埋め立てられ、日ノ出川は材木業者などの反対で遅れたが、昭和29年(1954)に埋め立てられた」。

 

⑤翁橋

日ノ出川と中村川の合流地点は、この橋の左手になる。現在の寿町だ。

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⑥日ノ出川公園

公園の向こうに紅葉した樹木が見えるが、あそこが日ノ出川と吉田川の合流地点だ。川の跡地5000㎡ほどが、公園としてその名を残している。

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⑦富士見川の始点

富士見川は埋め立てられたのが明治の中頃で、そのうえ関東大震災、戦災に遭って再開発されたため川の痕跡は皆無だ。中村川の向こうに見える茶色と白のビルが建っているところが河道になる。

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⑧長島橋

画面を横切っている広い道路がかつての吉田川で、富士見川は吉田川と交差してこの先まで伸びていた。写真の左手前、吉田川と富士見川に囲まれた場所に真金町遊郭があった。

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新富士見川

新富士見川は、明治30年(1897)、不動産・土木業の名士である伏島近蔵によって開鑿された。彼は新吉田川も工事している。新富士見川は、新吉田川と大岡川を結ぶ全長300m弱の短い川で、埋め立てが昭和48年(1973)と比較的最近だったこともあり、川の跡が再開発されずきれいに残っている。

⑨新吉田川との分岐点

新吉田川の流れていた場所から撮影。ビルの間に空間のあるところが新富士見川の跡だ。現在は青空駐車場と富士見川公園になっている。

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大岡川との合流点

大岡川の対岸から新富士見川跡を撮影。

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桜川

新橋駅-横浜駅(現在の桜木町駅)間の鉄道敷設にあたり、1870年に野毛浦の先を、1本の水路を残して鉄道用地として埋め立てられた。この水路には紅葉橋、錦橋、瓦斯橋、雪見橋、花咲橋が架けられ、1871年に桜木川(のちに桜川(さくらがわ)に名称変更)と命名された。(フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』)

昭和29年(1954)に埋め立てられたが、雪見橋、花咲橋などのバス停に川の名残りがあり、当時を偲ぶよすがとなっている。

当初は、大岡川から石崎川までほぼ一直線に流れていたが、大正になって流路が③から④のルートに変更された。「横浜市立図書館デジタルアーカイブ 都市横浜の記憶」で公開されている第四有隣堂の「大正調査番地入横浜市全図」を見ると、大正5年11月訂正第4版では直線のままだが、大正6年4月訂正第5版と大正8年1月の訂正第7版では直線路と迂回路が併記されている。そして、大正8年10月の訂正第8版では迂回路のみが描かれているから、大正5年頃から桜川を石崎川の上流方面に迂回させる工事が始まり、大正8年10月には直線路の埋め立てまで完了したことがわかる。なぜこの工事が行われたのかを推測してみたい。

初代横浜駅が現在の桜木町駅の場所にあったことはよく知られているが、大正4年には2代目横浜駅が石崎川のほとり、現在「ロワール横濱レムナンツ」マンションが建っているあたりに完成・移転した。敷地内に、駅の基礎遺構が残っている。桜川と石崎川が合流している場所に近いので、2代目横浜駅の建設が直線路を埋め立てるきっかけになったのかもしれない。また、「ちんちん電車 ハマっ子の足70年」(横浜市交通局)によれば、大正5年から8年にかけて高島町停車場をハブステーションとして整備しているようだ。高島町界隈の重要性が増し、直線路の埋め立てにつながったのだろう。その後、関内・桜木町東海道国道1号)を一直線につなぐ新横浜通りが建設されることになる。

①桜川の始点

正面にそびえる樹木から左に架かる桜川橋のあたりが川の始まりだ。f:id:konjac-enma:20201121104411j:plain

もし今でも桜川が流れているとしたら、川からこのような景色を見ることができただろう。緑橋があった場所から、みなとみらいを望む。

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②埋め立て後の昭和57年(1982)に架けられた紅葉橋

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③大正5年(1916)頃までは、正面にある髙島交番の左を流れ、石崎川に合流していた。

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その後、この道路の右側に沿って迂回する流路が築かれていく。

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④迂回路は、横浜市環境創造局桜木ポンプ場のある場所から石崎川に流れ込んでいた。石崎橋が架かっている護岸と右側の護岸の構造が違うので、このあたりが合流地点であろう。

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(2020年11月記)

横浜の川を歩く8 平戸永谷川

 

平戸永谷川は、境川水系の二級河川だ。「横浜の川を歩く2 馬洗川」で紹介したとおり、上流は馬洗川で、市営地下鉄上永谷駅付近の馬洗橋に入ったところから、平戸永谷川に名前が変わる。二級河川なので通常なら神奈川県の管轄だが、特別に横浜市が管理している。平戸永谷川には、支流として芹谷川、川上川、平戸川が流れ込んでいるので、これらの川も合わせて紹介する。

 

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馬洗橋に架かる人道橋の上から撮影した、下流方面の風景だ。平戸永谷川は写真の左下から馬洗橋に入り、直角に曲がって環状2号線の中央を流れる。中央分離帯が緑地になっているが、そのすぐ先から地上に現れている。

 

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馬洗橋から400mほど下った所に、永谷天満宮がある。祭神はもちろん菅原道真だ。明治六年には村社となった。新編相模国風土記稿には大略以下のように書かれている。

天神社の縁起によれば、大宰府に着任した道真公は延喜二年、自分の姿を模刻した一寸八分の彫像を作って息子の淳茂に与えた。その後彫像は、菅原文時、藤原道長、上杉金吾らに伝わり、明応二年(1493)二月のある夜、この地の領主で永谷郷に住んでいたといわれる藤原乗国が霊夢を見たことをきっかけに、社殿を造営し、この彫像をご神体として安置したそうだ。

 

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永谷天満宮横の歩道橋から上流方面を望む。手前に橋、その先には人道橋が見えるが、両側を道路に塞がれ、利用することができない。

 

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平戸永谷川に架かっている、通行禁止の上永谷人道橋。昭和63年に完成している。道路の向こうにある永野小学校(右端の建物)への通学路だったのだろう。環状2号線が全面開通してから自動車の走行量が増加したため、児童への安全を配慮して歩道橋を建設し、歩道を閉鎖したらしい。

 

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両側に遊歩道が整備され、散策する人が多い。川岸にはたくさんの河津桜が植えられており、ひと足早い春の訪れを知らせてくれる。2月下旬が見頃だ。メジロが群れて蜜を吸う桜が一本ある。その木を探してみるのも楽しい。

 

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馬洗橋から1500m、小高い丘の上に神明社がある。公式サイトの由緒には「永禄元年正月(皇紀二二一八・西暦一五五八)住民が合議し、 天照皇大御神を守護神と崇め、村の中心に当たる当地にお祀りしたもので、 新編相模風土記には、「神明宮、永谷村の鎮守とす。祭礼十一月十六日村持」とある。 村持とは村民の代表が経営することを示している」と書かれている。

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神明社から永谷川を見下ろす。細い参道だが、祭礼のときは橋の両側に食べ物の屋台が建ち並び、賑わいを見せている。

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カルガモをよく見かける川だ。

 

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芹谷川と合流する。右が永谷川だ。橋の上は高架になっていて、環状2号線が走っている。左手150m先には国道1号線の平戸交立体差点がある。

 

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合流地点の左には、広大な平戸永谷川遊水池がある。奥に見える白いフェンスが永谷川の向こう岸で、増水時には手前の越流堤を越えて遊水池に水が流れ込むようになっている。遠くに見える建物は、東戸塚の高層マンション群だ。

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カワセミやカワウが現れることも。

 

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国道1号線赤関橋交差点。永谷川は道路の下を抜け、画面の奥へ流れていく。左の道は旧東海道で、新編相模国風土記稿によれば、江戸時代にも赤関橋という土橋が架かっていた。また、永谷川は、このあたりでは赤関川と呼ばれていたそうだ。

 

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川上川と合流する。全長4920mのうち、3500mまで下ってきたところだ。

 

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JRと並行して流れる。走っている電車は横須賀線だ。川の右側が1kmほどの遊歩道になっており、天気がいい日には、散歩やジョギングをする人でにぎわっている。

 

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右から流れていくのが阿久和川。平戸永谷川は、ここから柏尾川と名前を変え、7km先で境川に合流する。

 

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平戸川の源流。住宅地の真ん中なので、源流の趣は皆無だ。左に下ると旧東海道で、200m先に品濃一里塚がある。

 

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平戸川は住宅地の裏手をひっそりと流れていく。

 

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国道1号線と並行して流れる。全長3km弱の平戸川で、一番目立つ場所だ。

 

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永谷川と合流する。平戸永谷川遊水池のところだ。

 

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芹谷川の源流は、谷底のような場所にある。坂を下りきった右手だ。

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近隣の雨水管から流れ込む排水が源流となる。

 

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暗渠になっている場所が多い。ここは、川の痕跡がそのまま残っている。

 

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芹谷川の永戸人道橋には水位計と監視カメラが取り付けられ、横浜市がデータを常時発信している。

横浜市防災情報

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水位計とカメラが設置されている理由は、川がくの字にカーブしており、豪雨時には氾濫する危険がある場所だから。護岸がかさ上げされ、氾濫対策も完了した。あと300mで永谷川と合流する。

 

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川上川は二つの流れが合流している。こちらを川上川右支流と仮称する。源流は東戸塚から二俣川に抜ける山越えの道、戸塚カントリーの手前にある。源流は斜め左の先に伸びているが、私有地で立ち入り禁止なので入ることができなかった。いずれにしても、このあたりが源流である。

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霊園の看板から左の細道に入り、少し進んだあたりが源流だ。

 

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川上川左支流の源流。こちらもまだ先がありそうだが、これ以上進むことができない。湘南医療大学の裏手、十愛病院の横だ。

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正面の十愛病院を左から回り込むようにして川は伸びているが、湘南医療大学の拡張工事のため見ることができない。

 

 

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都会と思われがちな東戸塚だが、駅のすぐそばには牧場があり、30年ほど前は牛糞の匂いが漂っていた。川上川左支流は、牧場の裏手から暗渠になり、東戸塚駅東口バスターミナル前の道路の地下を流れている。

 

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JR東戸塚駅東口。国土地理院が提供している1960年代の空中写真で東戸塚付近を見ると、川上川左支流がバスターミナルの先、西武デパート(正面肌色の建物)の前を横切って流れていたことがわかる。

maps.gsi.go.jp

 

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林立するビルの中に、こんもりとした白旗山公園がある。ここに鎮座する品濃白旗神社は、源義経を祭る神社だ。由緒によると、「白旗」の名がつく神社は全国で80あまりを数えるが、義経を祭る神社は8社しかないそうだ。創建は康元元年(1256)とのこと。

新編相模国風土記稿には「白旗社。村ノ鎮守トス。頼朝ヲ祀ルトイフ」と書かれており由緒とは違う。祭神が義経である文献の裏付けがあるのだろうか。

平成19年(2007)、不審火により全焼したことは当時ニュースになった。氏子たちの尽力により5年後に再建された。

 

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東戸塚の繁華街を外れたところで、川上川は再び姿を現す。聖ローザクリニック横のバス通り沿いだ。ここでは右支流と左支流は合体して一本の川になっている。過去の空中写真で確認すると、流出口のすぐ手前、横断歩道のあたりから右支流が合流しているようだ。ここから1400m下って平戸永谷川に合流する。

(2020年11月記)