横浜の川を歩く4 いたち川

いたち川は、漢字で「㹨川」と書き、これが正式名称である。「㹨」はJIS第一・第二水準で定義されていない特殊な字だ(ウィキペディアより)。普通なら「鼬川」と表記すべきところだが、「吾妻鏡」元仁元(1224)年六月六日の記事に「㹨河」の記載があり(新訂増補国史大系 吾妻鏡第三の18ページ)、明治期の刊行物にも「㹨川」「㹨河」と書かれているので、神奈川県もこの表記を尊重して「㹨」の字を使用している(「いたちかわらばん 通刊72号 2016年)。このブログでは、わかりやすいように「いたち川」と表記する。

二級河川に指定されているのは、神戸橋上流端から柏尾川に合流するまでの6.17kmだ。したがって、ここより上流は普通河川となる。横浜市は、いたち川の全長を7.18kmとしているが、源流のひとつであるミズキの谷までは8km程度あるようだ。

 

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横浜自然観察の森は、全国10カ所に計画された自然観察の森第1号として1987年にオープンした(「栄の歴史」はじめに)。いたち川源流の一つは、この自然観察の森にあるミズキの谷だ。この池には野鳥観察小屋があり、「ここが、いたち川の源流です」と書かれた看板が立っている。

 

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自然観察の森には他にも源流があり、 ここもそのひとつ。

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自然観察の森では、遊歩道の横を流れている。

 

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道路(環状4号線)向こうの左手奥には横浜霊園があり、その付近も、いたち川の源流とされている。こちらが本流らしくて、水量も豊富だ。道路をくぐり、グレーチングの下を流れて、少し先で自然観察の森からの流れと合流する。

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このあたりは「長倉町小川アメニティ」として整備され、休憩所もある。手押しポンプが目印だ。

 

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ミズキの谷から800mの地点。二つの源流は、ここで合流する。手前は横浜霊園からの流れ。隔壁の向こう側を自然観察の森からの小川が流れている。

 

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1800m地点は、特区農園になっている。市民菜園らしい。向こうに見えるこんもりした丘は、大丸山(おおまるやま)に続いている。大丸山は標高156.8mで、横浜市の最高峰である。

 

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農園の少し先に、昇龍橋(しょうりゅうばし)がある。明治30年代の末頃完成したと推測される、横浜市で最も古い石橋だ。古いだけでなく、姿も美しい。この橋は白山社の参道として架けられたが、社はすでになく、橋だけが残っている。

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昇竜橋横の山肌からも水が湧き出しており、ここも源流の一つだ。石積みが赤茶けているのは、鉄分を含んでいるからだそうだ(いたちかわらばん 通刊3号 1998年)。

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昇龍橋を渡った先は山道だが、人の通った形跡がない。戻る途中、橋のそばにやぐら(鎌倉時代のお墓)があった。

 

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モツゴらしき小魚が、たくさん泳いでいた。

 

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神戸橋を抜け、いたち川は上郷地区センターを周回するようにして流れる。

 

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庄戸郵便局前信号の50mほど手前に、起立講(きりゅうこう)の石碑群を見つけた。中心に据えられているのが、「御嶽山(おんたけさん)蔵王大権現」だ。

300mほど離れたところに横浜御嶽神社がある。この神社のホームページによれば、初代先達 森巳之助(みのすけ)氏が明治中期に建立。そして木曽御嶽山の神々をまつる起立講を結成し、ここを「御嶽山遥拝所」としたとのこと。

御嶽山の他にも、八海山、三笠山など10以上の石碑が建ち並び、馬頭観音や地蔵なども置かれ、壮観である。

 

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源流から3.5kmほど下ったところ。このへんから、川岸に彼岸花の群生が目立つようになってきた。いたち川には彼岸花がよく似合う。

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菩提寺(しょうぼだいじ)は文治五(1189)年に建てられた。

治承四(1180)年、源頼朝は石橋山で挙兵したが、衆寡敵せずに敗退した。このとき先陣を切ったのが弱冠25歳の佐那田与一義忠で、平家方の73騎を相手に壮絶な討ち死にを遂げたのである。自分の身代わりのようになって戦死した与一の忠義に報い、追善供養のために頼朝がこの寺を建立したといわれている(「源平盛衰記」)。

 

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源流から4.2km。

いたち川は昭和45年に河川改修の指定を受け、下流部分の工事は昭和60年に完成した。当時の施策は洪水対策を主眼に置いていたため、川はコンクリートで固められ、晴天時の水深は10cm以下、夏場の水温は40度以上で、魚が棲息できる環境ではなくなってしまった(いたちかわらばん 通刊41号 2008年)。その後、上流部が「ふるさと川事業」に指定され、水辺愛護会の努力もあって、この写真に見られるような美しい水辺としてよみがえったのだ。

 

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ひときわ目立つ扇橋。矢沢堀からの流れが合流している。

 

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天神橋からは、区役所・警察署・消防署・図書館などが建ち並ぶ栄区の中心街となる。橋の向こう側に四角い暗渠の排水口があるが、ここがもう一つの源流である新井沢川の合流地点だ。

 

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大いたち橋と小いたち橋。ここが瀬上沢との合流地点。左手から流れ込む瀬上沢も、瀬上池を源流とする、いたち川の支流だ。明治12年頃に完成した「皇国地誌」には、「猿田川(㹨川ニ合ス)」「猿田川(又上川トモ云)」と書かれており、明治期の名称は猿田川で、上川と呼んでいる村落もあった。

いたち川についても「大内川(又下川トモ云 即チ鼬川の上流ナリ)」とあり、ここから下流がいたち川だった。

(「神奈川県皇国地誌 相模国鎌倉郡村誌」(神奈川県郷土資料集成第十二輯))

 

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大いたち橋の欄干装飾は、大人のいたちだ。

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小いたち橋は、子ども。

 

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いたち川には鯉が多い。

水質汚染がひどかった1990年代のいたち川にはボウフラが湧き、住民たちは蚊に苦しめられていた。そこで横浜市は「フィッシュ ラブ ヨコハマ」と銘打った事業を立ち上げた。そして、汚染に強くてボウフラを餌にする魚として鯉を選び、2万匹を放流したのだ。しかし、鯉は水深の深い場所に集まったため、蚊の発生防止にはあまり役立たなかったそうだ(いたちかわらばん 通刊62号 2013年)。

そういえば、かつて汚染のひどかった大岡川や帷子川も鯉が多い。横浜市の施策だったのか。

 

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神奈川県警察学校のある海里橋、新橋(にいばし)のあたりは、鎌倉中の道、下の道など主要な街道の通り道だった(「栄の歴史」37ページ)。※ただし、下の道については異説あり。

「現代語訳 吾妻鏡9」(吉川弘文館)に、「元仁元年(1224)6月6日壬申。晴れ。炎旱が十日以上続いた。そこで今日、祈雨のため霊所で七瀬の御祓が行われた」と書かれているが、七瀬のひとつが㹨川だった。4日後に雨が降り、四日間降り続いたとも書かれている。「御祓」は、おそらくこのあたりで行われていたのだろう。

いたち川の名称について、動物のいたちではなく出立(いでたち)が転訛したものと考えられている。室町時代の「鎌倉年中行事」に、鎌倉公方が鎌倉を出発するとき、吉例によりいたち川で休憩したという記載がある。ここが旅立ちの起点という意味で、この川を出立川(いでたちがわ)と呼んだというのだ。この説には傍証もある。いたち川沿いにある光明寺は前身を仙福寺というが、北条時頼が発給した文書に「出立川仙福寺」の記載があるのだ(「栄の歴史」30ページ)。

また、交通の要衝であったこの地には宿駅があったと考えられている。

随筆「徒然草」で有名な吉田兼好が、いたち川を詠み込んだ和歌を作っているが、詞書に「さがみの国いたち河といふところにてこのところの名をく(句)のかしら(頭)にすへてたびの心を」とあり、

かにわが(立)ちにし日よりり(塵)のゐて風(ぜ)だにねや(閨)をら(払)はざるらん

と歌った。句の頭をつなげると「いたちかは」となる(兼好法師家集 岩波文庫昭和12年1月15日発行)P.31)。

兼好がこの地に止宿し、旅立ちの感慨を詠んでいるのだ。

 

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いたち川沿いのところどころに、彫刻が展示されている。この作品は、星野健司「ライダー・トリックスターⅨ」だ。

 

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終点が近い。柏尾川との合流から1kmの地点にアオサギがいた。

 

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柏尾川と合流する。やっとゴールだ。半円形に凹んでいるのは、魚道を確保するためである。

 

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合流地点をJR東海道線が横切る。横須賀線も通っている。上はJR根岸線だ。

(2020年10月記)