横浜の川を歩く11 帷子川①

帷子川(かたびらがわ)は横浜市旭区を源流とし、横浜駅東口までの約17.3kmを流れる二級河川だ(「横浜の川」横浜市道路局河川部)。鶴見川大岡川と並ぶ、横浜を代表する河川である。

今回は、帷子川の源流から鶴ヶ峰までをレポートする。また、支流の矢指川についてもふれてみたい。

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遊歩道に植えられた桜はまだ開花していなかったが、コブシやボケが満開で、単調な景色が続く帷子川上流の散策を楽しませてくれた。

 

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帷子川の源流は、横浜市旭区の若葉台団地付近にある。団地の西側、星槎高等学校の正門前の道路を渡って、若葉台西バス停横の階段を下りるとすぐだ。そこに「帷子川水源」の表示板が立っているが、ほんとうの源流は、もっと先にあるようだ。地図を見ると、流れは100m以上先まで続いている。しかしながら水源地点には立ち入ることができないため、場所を確認することはできなかった。

 

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画面右上に見えるレンガ色の建物は、有料老人ホーム「トレクォーレ横浜若葉台」だ。水源の表示板はその手前にあるが、そこが川の始点ではなく、もっと上流(手前)まで川は続いている。右下にフェンスが見えるが、そこが河道である。
若葉台団地の高層住宅群が見える。

 

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源流から500mほどは遊歩道で、上川井町小川アメニティと名づけられている。

 

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大貫谷戸水路橋(おおぬきやとすいろきょう)だ。源流から900mほど下流に位置している。帷子川は、道路の下を左から右に流れる。

水路を支える橋のことを水路橋という。相模湖から送られてくる水道用水を川井浄水場から鶴ヶ峰配水池まで導水する7kmの区間に、3ヶ所建設されている。完成は昭和27年だ。自然の水流を利用し、100m進むと6cm下がるように設計されている水路なので、高さを維持するため谷をまたぐときは水路橋が必要になる。中でも一番長い橋が大貫谷戸水路橋で、延長414m(鉄鋼部分306m)、高さが23mあり、この規模の水路橋は全国的にも珍しいそうだ(横浜市水道局・川井浄水場が設置した表示板から抜粋)。

とても有名な水路橋だから、ウェブページにたくさんのレポートが掲載されている。興味のある方は、そちらを参照していただきたい。

 

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帷子川は、近年まで暴れ川として知られていた。そこで、河道をまっすぐに付け替えるショートカット工事や分水路の建設が精力的に行われたが、完了したのは鶴ヶ峰から河口までの区間であり、そこから上流については、いまでも工事が継続されている。横浜市公共事業評価委員会の資料「 都市基盤河川帷子川河川改修事業(川井本町地区)」によれば、令和15年に改修工事が完成する予定だ。

上の写真は学校橋付近で、まだ本流とつながっていない。

下の写真は誠心会神奈川病院付近で、まだ着工していない。川は病院が建っている丘の下を流れている。

 

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帷子川は、水道道(すいどうみち)を何度か縫うようにして、蛇行しながら流れていく。水道道は、道志川の水を横浜の野毛山配水池まで運ぶ、歴史ある道路だ。

横浜が近代水道発祥の地であることはよく知られており、横浜市のウェブページでも紹介されている。

横浜水道のあゆみ(概要) 横浜市

「水道みち「トロッコ」の歴史」案内板に、「この水道みちは津久井郡三井村(現:相模原市緑区三井)から横浜村の野毛山浄水場横浜市西区)まで約44kmを、1887年(明治20年)わが国最初の近代水道として創設されました」と記載されている。明治18年の着手からわずか2年で、44kmもの区間に水道管を敷設する工事を完成させたのだから驚く。導水ルートにレールを敷き、トロッコで水道管や資材を運搬したのだが、この道が今でも水道道と呼ばれ、横浜市民に親しまれている。

帷子川にかかる五反田橋(横浜市旭区川井本町)には軌道のレールが保存され、当時の面影を偲ぶことができる。

 

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改修工事中。左に蛇行しているのが現在の河川。ガードレールに沿って川をまっすぐにする工事が行われている。100mほど完成したが、まだ本川につながっていない。

 

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中原街道は、東京都千代田区虎ノ門を起点とし、神奈川県平塚市立中原小学校(中原御殿跡)までを結ぶ街道である。徳川家康は、この街道を鷹狩りや駿府への往来などに利用したが、そのさいの宿泊場所として中原御殿を建てた。中原街道には、他にも小杉御殿と神奈川御殿の存在が史料で確認されている。

中原街道が帷子川と交差するこの場所(横浜市旭区下川井町)には御殿橋という橋がかかっている。「新編武蔵風土記稿」に「旧跡 御殿場。下川井村のうち、東の方中原道の傍にあり。むかし東照宮江戸より相州高座郡中原御殿へ渡御ありしとき、しばしが程此所におわしまし、お茶を立てられしと云う」(句読点などを適宜補記)と書かれており、御殿があったかは定かでないが、休憩施設はあったのだろう。橋の名前は、この伝承にちなんでつけられたそうだ。

 

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御殿橋は水位観測地点になっており、水位の情報とライブカメラ映像が横浜市の水防災情報サイトで常時公開されている。

水位観測地点詳細情報(現在)

 

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清来寺は旭区今宿南町にある浄土真宗の寺院だ。このお寺には「夏野の露」と云う巻物が伝えられている。畠山重忠の武勇をたたえるため、住職の宥欣が近在の人々に呼びかけ、70余首の歌にして嘉永5年(1852)に完成した巻物だ。この後、畠山重忠は地元の人たちによって手厚く祭られるようになった。(「水辺からのレポート 横浜帷子川を行く」より)

 

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帷子川は清来寺から1.4kmほど下流二俣川と合流し、鶴ヶ峰を抜けて河口へ向かう。合流地点から星川までは「横浜の川を歩く10 帷子川②」でレポートしているので、そちらをご覧いただきたい。

運良くダイサギコガモを見つけることができた。地元の人の話では、カワセミもいるそうだ。

次に、帷子川の支流である矢指川(やさしがわ)について簡単にレポートしたい。

 

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矢指川は、神奈川県内広域水道企業団(横浜市旭区矢指町1194)付近を水源域とし、矢指市民の森でいくつかの流れと合流しながら保土ヶ谷バイパスの下を抜けて帷子川に流れ込んでいる。帷子川との合流地点から540m上流までが準用河川で、その先は普通河川になる。

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矢指市民の森は菜の花畑が美しいことで知られており、今回のレポートも満開の時期に合わせての訪問だった。矢指川は、畑の横を流れている。

 

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中原街道保土ヶ谷バイパスが交差する手前で、中原街道の下を流れている。道路の左側は、相鉄バスの旭営業所だ。

この場所に3基の石塔が建っている。左から享保15(1730)年の庚申塔、正徳2(1712)年の六十六部高顕所、明治4(1871)年の神馬祭記念碑だが、青面金剛が彫られた庚申塔については、こんな昔話が伝わっている。

「一匹の狸が中原街道を歩いていると、恐ろしい顔をした青面金剛が睨んでいるではありませんか。それを見た狸は、これは一大事と遠回りをしました。そして僧に化けて、矢指谷戸の桜井さんに一夜の宿を頼みました。桜井さんのご主人は、可愛そうな旅の僧だと思い、気持ちよく迎え入れたということです。狸は主人の手厚いもてなしに感動し、掛け軸に絵を書いて置いて行きました。桜井さんは、今でもこの掛け軸を大切に持っているそうです」(旭ガイドボランティアの会ウェブページより)

 

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帷子川と合流する。正面が矢指川だ。

「帷子川①」はここまで。長文にお付き合いいただき感謝します。

(2021年3月記)