横浜の川を歩く20 六ツ川①(消えた川)

f:id:konjac-enma:20211128213326j:plain横浜市南区には六ツ川という町があります。1927(昭和2)年に横浜市編入されて六ツ川町となりましたが、江戸後期には引越村と呼ばれていました。変わった名前ですが「新編武蔵国風土記稿」に、多々久郷が五ヶ村に分かれたとき、その村々の民が引っ越して形成した村なので引越村と呼ばれている旨が記載されています。

この村が六ツ川町と名づけられた理由について、横浜市が1996(平成8)年に発行した「横浜の町名」によれば、昔の多々久郷が弘明寺村、中里村、別所村、最戸村、久保村、引越村の6ヶ村に分かれたことと、市に編入される前が大岡川村であったことにちなみ「六ツ川」となったそうですが、この地域にあった6つの谷戸から流れる谷川に由来するという別説も紹介されています。地元ではこちらの説が定着していて、南区制50周年記念誌「南・ひと・街・こころ」で、六ツ川の町名の由来について「この地域に鮫ヶ谷・久保谷・マンカ谷・久田谷、荒戸谷・御堂谷の六つの谷があり、これより流れ出る谷川が合流して、六ツ川と呼ばれるようになった」と記載されています。また、六ツ川音頭にも、この六つの谷が歌い込まれています。川の名が、そのまま町名になったというのです。

歴史地図や南区明細地図に、六ツ川町を流れる川が描かれています。この川を「六ツ川」と記載している地図を見つけることはできませんでしたが、「横濱南区 昭和むかし話」で、六ツ川在住の石井正雄さんが「夏になると子どもたちは大池で泳いで遊んだ。シジミが採れた。水門があって川(用水路)が流れていた。この川が六ツ川で、六つの沢が合流して一つになったというところからそう呼ばれたそうだ」と、思い出を語っていますから、この川が六ツ川なのでしょう。「はまれぽ」の記事でも、地元の女性がこの川を六ツ川と呼んでいます。

戦後復興から高度経済成長の過程で六ツ川は埋め立てられ、かつての清流は姿を消してしまいました。

失われた六ツ川の姿を地図上に再現する試みは、六ツ川地区の歴史を語り継ぐ手だての一つとして意義が大きいと思います。そこで今回の川めぐりは、「消えた川 第2弾」として、六ツ川を取り上げることにしました。

作成した地図について、ご注意いただきたいことがあります。地図を作成するため、上述した資料の他に

・明治39年頃の南区地図(「南区の歴史」)
・六ツ川が記載されている大正9年以降の歴史地図
・昭和32年から48年までの横浜市南区明細地図
横浜市三千分一地形図(昭和36年 横浜市建築局) 
久良岐郡大岡川村引越 大正初期の各戸の俗称(六ツ川台コミュニティハウス)
・公共下水道台帳図情報「だいちゃんマップ」(横浜市
国土地理院地図(陰影起伏図)
などを参照しました。明治期から現在までの資料をひとくくりにして、現時点で確認できる川の痕跡と照らし合わせながら地図に落とし込んでいます。大池小池は明治・大正期の絵地図、下流の川筋は横浜市建設局が昭和25年に作成した地図、支流は国土地理院の陰影起伏図と現地調査、上流の流路は、昭和34年の南区明細地図を基本に作成しています。時代の変遷にともなう景観の変化にこだわらず1枚の地図に仕上げていますから、特定の時期における六ツ川の様相を正確に表したものではないことをご了解ください。

源流の大池・小池から住吉神社までの流路を記した地図です。拡大すると見やすくなります。(※大岡川に流れ込む下流部分については「六ツ川②」でご紹介します)赤線が六ツ川の本流で、青線は支流です。そのほとんどは暗渠(雨水・下水路)となるか、埋め立てられ消滅しています。地図に記された番号の場所については写真がありますから、そちらの解説をご覧ください。

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f:id:konjac-enma:20211129105406p:plain小池があった六ツ川公園から、大池方面を撮影しました。「新編武蔵国風土記稿」にも「溜井三ヶ所」と記されています。地図に描いた池は、明治・大正期の資料などを参考にしたのですが、時代によって池の姿が変貌しているため、位置や形状はあくまでも推定です。

大正9年の豪雨で堤防が決壊して大池は湿地帯となり、その姿は失われてしまいました(「六ツ川大池地区連合自治会結成二十周年記念誌」より)。小池も昭和6年の地図に記載されていますが、昭和8年の地図にはありませんから、この頃に姿を消したのでしょう。

神奈川中央交通のバス停「大池」の名称が、かつての名残をとどめています。

f:id:konjac-enma:20211129134025p:plain正面奥の小池方面から平戸桜木道路を横断して裏道に入ります。明治39年頃の地図には引越坂方面(画面左手)からの流路も記されていますが、この地図では省略しました。上を通っているのは横浜横須賀道路です。

f:id:konjac-enma:20211129134318p:plain廃業したガソリンスタンド横の道路を曲がってからは、平戸桜木道路と並行して流れます。

f:id:konjac-enma:20211129135053p:plain別所に抜ける道路を横断します。

f:id:konjac-enma:20211129140403p:plain平戸桜木道路より1.5mほど低いところに流路があることがわかります。

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f:id:konjac-enma:20211129140925p:plain平戸桜木道路の右側をほぼ並行して流れていた六ツ川ですが、ここで道路の下から向こう側に抜けて行きます。昭和48年度版の南区明細地図では、この場所に「六ツ川橋」の記載があるので、橋が架かっていたのでしょう。左奥に見える建物は、定光寺です。

六ツ川橋から住吉神社の先まで、およそ1100mの区間は、一部を除いて昭和47年頃に埋め立てられたようです。

f:id:konjac-enma:20211129142817p:plain道路の片隅に石碑が2基建っています。

左は庚申供養橋塔で、1767(明和4)年の銘があります。橋を架け替えたり修理したときに供養を行い、建てられたのが橋供養塔なので、この年に架橋(あるいは修理)を行ったのでしょう。

右は百番供養塔です。西国三十三番、板東三十三番、秩父三十四番合わせて百ヶ所の観音霊場を村の代表者が巡礼したことを記念して建てられました。1799(寛政11)年銘で、願主は宮森氏です。

f:id:konjac-enma:20211129144106p:plain弘明寺へと向かう分かれ道に、2基の石碑が建っています。左は1780(安永9)年銘の庚申供養塔(道標)で、粟飯原忠左衛門建立。「くミやうし道」と彫られています。右は1776(安永5)年の道標で、「是より右くミやうし」と彫られ、願主は渋谷氏です。(「南区の歴史」の「金石一覧」より)

粟飯原(あいはら)氏と渋谷氏は先述の庚申供養橋塔にもその名がありますから、引越村の有力者だったのでしょう。石塔の後ろはアイハラビルで、粟飯原氏の居宅でした。

f:id:konjac-enma:20211130134113p:plain六ツ川は京浜急行の高架の脇を抜けて、線路の向こうに流れていきます。

f:id:konjac-enma:20211130134748p:plain京浜急行線をくぐった六ツ川は、線路に沿って井土ヶ谷方面に流れていきます。緑色のフェンスで囲まれた流路が,暗渠として残っています。右は平戸桜木道路です。

f:id:konjac-enma:20211130135511p:plainU字にカーブし、平戸桜木道路を横断して住吉神社へ向かいます。

f:id:konjac-enma:20211130135750p:plain住吉神社の前で左に折れ、そこから100mほど先までで「六ツ川①」は終了です。下流については「六ツ川②」でレポートしますが、なぜこの場所で分けたかというと、六ツ川橋からここまでの区間は1972(昭和47)年頃まで残っていましたが、「六ツ川②」で紹介する下流部分は戦後復興の中で埋め立てられ、遅くとも1957(昭和32)年には川として存在していませんでした。区切りとしてはちょうどいい場所です。

※六ツ川橋~住吉神社は、昭和47年の明細地図に川の記載がありますが、昭和48年の地図では消えています。また、下流部分は昭和25年の横浜市三千分一地形図に記載がありますが、昭和32年の明細地図では、すでに宅地になっています。昭和28年に発行された「横浜市精密大地図」(毎日新聞社)にも描かれていないので、昭和26~27年頃に埋め立てられたのかもしれません。

「六ツ川②」では大岡川に合流する下流部分と、六ツ川と呼ばれるきっかけになった、六つの谷から流れ込む支流についてレポートします。

(2021年11月記)