横浜の川を歩く21 六ツ川②(消えた川)

f:id:konjac-enma:20211201105305j:plain上の地図に赤い線で示したのが六ツ川です。「六ツ川①」では、上流を紹介しましたが、今回は住吉神社から下流をレポートします。下の地図をご覧ください。

f:id:konjac-enma:20211202112719p:plainこの流路は、1950(昭和25)年に横浜市建設局が作成した「横浜市三千分一地形図」に描かれたものをそのまま転記しています。1932(昭和7)年の地図もほぼ同じです。住吉神社の手前から大岡川の合流地点までが、地図符号の「被覆(木製)」で描写されているので、昭和7年以降は、表面を木の板で覆った水路だったのでしょう。

横浜市では1950(昭和25)年度から下水道の整備事業が始まり、1955(昭和30)年度末までに57万6309mの下水管が敷設されていますから(「横浜市史Ⅱ第2巻上29ページ)、この頃に埋め立てられ、流路のほとんどが雨水・汚水の下水管に変わったのでしょう。1957(昭和32)年の明細地図を見ると、すでに宅地になっています。昭和28年に発行された「横浜市精密大地図」(毎日新聞社)にも描かれていません。

f:id:konjac-enma:20211202105641p:plain家が背中合わせになっている空間は川の跡としか思えませんが、昭和25年の地図で示された流路から少し外れています。地図では道路に沿って流れていますが、もっと以前には、二本の道路の間を流れていたようなのです。大正から昭和初期の歴史地図には、そのように描かれています。下の地図をご覧ください。

f:id:konjac-enma:20211202113224p:plain建物の配置が不自然だったり、すき間があるところを赤線で引くと、大正から昭和初期の歴史地図に描かれている六ツ川と符合します。大正12年の関東大震災で多くの建物が倒壊した後、復興する過程で旧河川を埋め立て、道路沿いに移動させたのだろうと推測しています。1924(大正13)の調べで、井土ヶ谷町に居住する4195人のうち158人がバラック住まいでした。この年には幅22mの井土ヶ谷・通町線が築かれていますから(「南区の歴史」P.169,176)、この地区は再開発が進んだものと思われます。

f:id:konjac-enma:20211202130111p:plainここも川の跡なのでしょう。

f:id:konjac-enma:20211202130205p:plain鶴巻市場交差点。井土ヶ谷・通町線(環状1号)を横断して大岡川に向かいます。

f:id:konjac-enma:20211202130738p:plain大岡川との合流地点です。下水の合流管が埋設されていますが、川から見ることはできませんでした。

f:id:konjac-enma:20211129093637p:plainここからは再び上流に目を転じ、支流をたどります。

六ツ川と呼ばれるもとになった六つの谷を確認します。鮫ヶ谷・久保谷・マンカ谷・久田谷、荒戸谷・御堂谷がこれにあたり、「新編武蔵国風土記稿」にも記載されています(久田谷を除く)。ただし近代以降の地図には鮫ヶ谷しか載っていませんから、他の谷は「久良岐郡大岡川村引越 大正初期の各戸の俗称」という、地元の方が回想した絵図をもとにして地図に再現しました。絵図に久保田、萬谷戸と書かれているのが久保谷、マンカ谷なのでしょう。

現地を踏査し、支流とみられる痕跡をたどりました。5本の支流を確認することができましたが、これが六ツ川の元になった支流なのかはわかりません。

f:id:konjac-enma:20211202133227p:plain久田谷にある湧水で、「砂白自然の泉」と呼ばれています。宅地として開発されるまで、清流が六ツ川に注いでいたのでしょう。

f:id:konjac-enma:20211202133746p:plain荒戸谷の支流です。三方を高台に囲まれた狭隘地で、今でも水がしみ出しています。

f:id:konjac-enma:20211202134010p:plain御堂谷は西側が崖のように切り立っていて、随所で水が湧き出ています。

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f:id:konjac-enma:20211202134653p:plain六つの谷に該当しませんが、六ツ川中央公園の谷地から流れ出しています。開渠で残る、貴重な支流です。

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f:id:konjac-enma:20211202135031p:plain鮫ヶ谷の支流です。こちらも開渠の部分があります。左の寺は定光寺です。

2回にわたるレポートで、ありし日の六ツ川を一程度再現できたと思っています。六ツ川橋から上流が埋め立てられた時期を確認する前に力尽きてしまいましたが、それはこれからの宿題ということで、今回はこの辺で終了とします。

(2021年12月記)