横浜の川を歩く24 永田川(消えた川)

永田川は横浜市南区永田の溜井を源流として、井土ヶ谷を抜けて大岡川に注いでいた全長3kmほどの河川でした。しかし、昭和30年代末までにその多くが埋め立てられ、今ではその名残すらほとんどありません。農業用水として地域住民に恩恵をもたらしてきた永田川の記憶を後世に伝えるためにも、ありし日の永田川の様子を記録しておくことは意義のあることと思い、調査してみました。

今回作成した再現図は、昭和初期から20年頃の永田川の様子を現在の地図に投影したものです。終戦、そして高度経済成長とともに町は大きく変貌しました。そこに100年前の川を当てはめていますから、もとより正確な図ではありません。そのことを、あらかじめご了承ください。

調査にあたり、以下の資料を参照しました。
・「大正十年頃の北永田地区記憶図」(「南区の歴史」 昭和51年)
・大横浜市交通地図(東京日日新聞 昭和4年 横浜市図書館WEB)
横浜市土地宝典第1巻(昭和5年 神奈川県立公文書館WEB)
・南太田3000分の1地形図(昭和7年、25年、39年 横浜市建築局WEB)
・保土ケ谷3000分の1地形図(昭和19年、28年 横浜市建築局WEB)
・永田3000分の1地形図(昭和36年 横浜市建築局WEB)

調査の出だしから、つまずきました。行政地図や歴史地図などに永田川の流路は描かれていますが、川の名称が記載されていないのです。じゃあ、なぜ私はこの川が永田川であることを知っているのだろう。つらつら考えた末、以前「南区の歴史」で目にしていたことを思い出しました。調べてみると、この本の「大正十年頃の北永田地区記憶図」に「永田川」と記載されており、地元の方たちがこの川を永田川と呼んでいたことを確認できたのです。

地図で示したように永田川は三つに分かれており、それぞれ溜井を源流にしています。昭和4年の「大横浜市交通地図」には、いちばん西側、「西の谷の池」からの流れだけが記載されていますので、これが本川と考えてよさそうです。

①西の谷の池

永田台ゴルフ練習場から幹線道路に下っていく一角が窪地になっていて、ここが「大正十年頃の北永田地区記憶図」に描かれた「西の谷の池」なのでしょう。

②昔のままの水路

溜井の先、セブンイレブンの裏手に水路がありました。ほとんどが埋め立てられた永田川の、わずかに残された露頭部分です。

③かつての流路

幹線道路の裏手にある曲がりくねった道が、かつての流路です。

埋め立てられてはいますが、川の痕跡でしょう。

④永田川の跡

こちらも、川の跡であることがよくわかります。

川から15mほど左の道は、幹線道路です。古くから開けた道なので、通行量が多いにもかかわらず狭くて信号も多く、歩道がない場所もある厄介な道路です。

本川の流路

本川は、スーパーTAIGAの先から道路の反対側に移動し、南警察署永田交番までまっすぐに流れていきます。

⑥永田町交番から細道へ

鎌倉街道の通町と東海道の保土ケ谷を結ぶ環状1号線と接する手前で、かもめパン裏の細道を抜けていきます。

かもめパンの裏手です。

弘明寺

永田交番から京浜急行ガードの先までは、江戸時代に弘明寺道と呼ばれた道です。弘明寺道は、東海道の保土ケ谷宿から古刹の弘明寺に至り、その先は上大岡から市立南高校の横を通り、港南区の日限山で、鎌倉古道として知られる中道と合流して鎌倉に到達します。「かながわの古道」では、このルートを鎌倉古道下ノ道と記載しており、中世の鎌倉街道だったのでしょう。

⑧堂の谷の池

永田川下流を紹介する前に、支流を確認しておきましょう。まず、堂の谷の池から始まる流れについてです。この溜井は、南永田団地の中央部にありました。

「公団ウォーカー」WEBによると、南永田団地は賃貸住宅1425戸、分譲住宅1035戸を擁する大規模団地で、昭和49年に入居が開始されました。

上の図は賃貸エリアで、この下に分譲の1街区がありますから、まさに南区最大。団地のお祭りでは、花火が上がります。

堂の谷の池は、青い実線で囲んだあたりにありました。標高40mほどの位置にあり、下流の永田小学校からは20m以上も高い場所です。こんなところに溜池があったのかと疑いたくなりますが、周囲を60m級の高台に囲まれ、すり鉢状の窪地になっているのです。雨水や地下水がここに溜まり、それを灌漑用水として利用したのでしょう。

堂の谷の池があったのは、この辺です。

⑨南永田団地バス停

川は、南永田団地バス停の先を、永田台小学校から右に流れていきます。

ここから一気に10mほど下降していますが、当時の流路がどのようであったのか、ちょっとわかりません。

⑩永田小学校

永田小学校のグランドのきわを通り、裏門から外へ抜けていきます。

北永田は、複雑に入り組んだ高台を縫うようにして平地が広がっています。この土地を利用して、稲作が行われていました。「南区の歴史」によると、江戸末期の永田村の石高は424石余で、戸数は55戸でした。農地の半分は畑で、そこでは麦や大豆、野菜などを耕作していたようです。

永田川の源流がすべて溜井であることが、この川が灌漑用水として利用されていたことを物語っています。田畑が宅地に姿を変えていくとともに溜井が消滅し、川も埋め立てられていったのです。

春日神

永田小の裏門から道なりに流れてきた永田川は、春日神社の参道を通って本川と合流します。

「新編武蔵国風土記稿」に、春日神社は永田村の鎮守社で祭礼は9月11日。また、7月7日には村人が網代の的を射て奉納すると書かれています。「南区の歴史」に、昭和初期に行われた祭礼の写真が掲載されていますが、盛況だったようです。

春日神社の参道を下る支流と左奥からの本流がスーパーTAIGAの前で合流し、右に流れていきます。

⑫東の溜井

さて、次に二つ目の支流について見ていきます。坂の下あたりが、溜井の場所です。低い位置にあることがわかるでしょう。

⑬川の痕跡

ここからは、京浜急行のガードを過ぎた先の、下流を見ていきます。

⑭井土ヶ谷小学校入口

川は井土ヶ谷小学校の敷地を通り、門の外へ流れ出していました。

⑮平戸桜木道路と合流

南郵便局の横から平戸桜木道路に出て、道の左を流れていました。

⑯井土ヶ谷交差点

平戸桜木道路と環状1号が交差する五叉路です。交通量の多い道路ですが、永田川はここを貫いて流れていました。川は幹線ではなく、蒔田中学校へ向かう脇道に向かいます。

⑰南センター入口信号

平戸桜木道路を何度か横断しながら、大岡川に近づいてきました。

⑱下の前公園

下の前公園は矩形ではなくてゆるやかな丸みがあり、流路の跡に整備された公園であることがわかります。

大岡川との合流地点

永田川は、南区南太田2丁目32付近で大岡川と合流します。右が市立横浜商業高校の野球部グラウンド、左はテニスコートです。永田川は埋め立てられましたが、河口までの300mほどは、南太田地区一帯の雨水吐出口として利用されています。

(2022年7月記)