横浜の川を歩く25 砂田川

砂田川(すなだがわ)は鶴見川水系一級河川で、横浜市神奈川区菅田町を源流として、港北区の鳥山町で鳥山川に合流しています。市長管理区間は1,470mですが、普通河川部分を含めると、4kmほどになります。

源流付近です。地図上では400mほど下ったあたりが源流ですが、流れはここまで続いています。川というより、水路と呼んだほうがよさそうです。

源流付近には農村の原風景が残っていて、隠れ里のようです。源流を、その先までたどっていくと小高い尾根道に出ますが、その道が保土ケ谷区との境界になります。

少し下った、塚のような場所に庚申塔と地神塔がありました。庚申塔は元禄5(1692)年と銘記されていますから、かなり古いものです。

砂田川は菅田道路に沿って流れています。道には庚申塔がいくつかありました。横浜の庚申塔は、地神塔とセットになっているものが多いようです。

400mほど下ると、いきなり人家の密集地となります。数十年前までは氾濫することがあった砂田川ですが、河道を掘削しコンクリートで整備したことにより、氾濫はなくなったそうです。

菅田道路です。菅田地区の幹線道路で、交通量が多くバスも通っています。昭和25(1950)年に整備されましたが、明治期に作成された「迅速測図」(歴史的農業環境閲覧システム)に描かれている道と、ほぼ符合します。江戸時代に刊行された「新編武蔵国風土記稿・下菅田村」に「三枚橋村より入り都筑郡の内鴨居村に貫けり村内を経ること三十町」と記載されているのがこの道でしょう。「風土記稿」には、小机城が落城(天正18年)したころはほぼ原野だったが、菅田の村民が移住して開墾したらしいと書かれていますから、江戸時代初期から続く古い道です。庚申塔が多いのも、うなずけますね。

左から流れ込んでいるのが砂田川の支流だと思ったのですが、横浜市の「だいちゃんマップ」で確認したところ、西菅田団地一帯から雨水管を通って集まってきた雨水の放流口でした。

杉山神社下の道路沿いに祠がありました。右から堅牢地神塔、庚申塔、地蔵のようです。

ウィキペディアによると、地神塔(じじんとう)は、地神信仰に基づいて造立された石塔で、東日本では神奈川県に多く分布しています。横浜市域には地神塔170基が確認され、主銘文は「地神塔」「堅牢地神」が多いそうです。

菅田道路からの標高差が約25m、階段を77段上ったところに鎮座しているのが杉山神社です。龍の神社彫刻や舞殿もあり、わりと立派な神社です。

第三京浜道路の200mほど手前に庚申橋が架かっており、そのたもとに庚申塔があります。こちらも元禄15(1702)年ですから、かなり古い庚申塔です。横にはお約束の地神塔が。

合流橋の上から、支川と本川を撮影。向かって左が支川で、菅田中学校方面から流れ込んでいます。菅田道路周辺は稲作地帯でしたから水路が張り巡らされており、今でも支流があちこちに流れています。右の鉄柵からは、雨水管を通ってきた雨水が放流されます。

砂田川親水広場です。整備された遊歩道には百日紅が咲き、視界が開けた気持ちのいい場所ですが、生き物の姿が少なく、魚や水鳥を見かけることはありませんでした。

川からは少し離れますが、鳥山郵便局前の信号から南西へ、上り坂を400mほど進んだところに神明社があります。神奈川県神社庁のウェブページに「古来より菅田町全域の総鎮守であり、明治6年村社に、大正15年9月神饌幣帛料供進社に指定された」と書かれている、由緒ある神社です。

真部橋から細道を90mほど歩いた鳥山町219番地に、将軍地蔵があります。大蔵精神文化研究所のウェブページに「この地蔵は、高さ2尺程(約60センチ)で、佐々木高綱播州兵庫県)へ行った時に、なんと馬上へ飛んできたもので、高綱はこれを守り本尊としました。高綱が戦場で多くの武功を立てられたのはこの地蔵の加護によるものとして、高綱は鳥山八幡宮の参道の脇にお堂を建てて祀ったそうです」と紹介されています。

期待して見に行ったのですが、祠の扉が閉ざされていて、拝観することはできませんでした。残念です。

源流から砂田川を下ってきた旅もここが終点。環状2号線道路をくぐると、鳥山川に合流します。

環状2号線を抜けて右から流れ込んでいるのが砂田川、左は鳥山川です。

(2022年8月記)

横浜の川を歩く24 永田川(消えた川)

永田川は横浜市南区永田の溜井を源流として、井土ヶ谷を抜けて大岡川に注いでいた全長3kmほどの河川でした。しかし、昭和30年代末までにその多くが埋め立てられ、今ではその名残すらほとんどありません。農業用水として地域住民に恩恵をもたらしてきた永田川の記憶を後世に伝えるためにも、ありし日の永田川の様子を記録しておくことは意義のあることと思い、調査してみました。

今回作成した再現図は、昭和初期から20年頃の永田川の様子を現在の地図に投影したものです。終戦、そして高度経済成長とともに町は大きく変貌しました。そこに100年前の川を当てはめていますから、もとより正確な図ではありません。そのことを、あらかじめご了承ください。

調査にあたり、以下の資料を参照しました。
・「大正十年頃の北永田地区記憶図」(「南区の歴史」 昭和51年)
・大横浜市交通地図(東京日日新聞 昭和4年 横浜市図書館WEB)
横浜市土地宝典第1巻(昭和5年 神奈川県立公文書館WEB)
・南太田3000分の1地形図(昭和7年、25年、39年 横浜市建築局WEB)
・保土ケ谷3000分の1地形図(昭和19年、28年 横浜市建築局WEB)
・永田3000分の1地形図(昭和36年 横浜市建築局WEB)

調査の出だしから、つまずきました。行政地図や歴史地図などに永田川の流路は描かれていますが、川の名称が記載されていないのです。じゃあ、なぜ私はこの川が永田川であることを知っているのだろう。つらつら考えた末、以前「南区の歴史」で目にしていたことを思い出しました。調べてみると、この本の「大正十年頃の北永田地区記憶図」に「永田川」と記載されており、地元の方たちがこの川を永田川と呼んでいたことを確認できたのです。

地図で示したように永田川は三つに分かれており、それぞれ溜井を源流にしています。昭和4年の「大横浜市交通地図」には、いちばん西側、「西の谷の池」からの流れだけが記載されていますので、これが本川と考えてよさそうです。

①西の谷の池

永田台ゴルフ練習場から幹線道路に下っていく一角が窪地になっていて、ここが「大正十年頃の北永田地区記憶図」に描かれた「西の谷の池」なのでしょう。

②昔のままの水路

溜井の先、セブンイレブンの裏手に水路がありました。ほとんどが埋め立てられた永田川の、わずかに残された露頭部分です。

③かつての流路

幹線道路の裏手にある曲がりくねった道が、かつての流路です。

埋め立てられてはいますが、川の痕跡でしょう。

④永田川の跡

こちらも、川の跡であることがよくわかります。

川から15mほど左の道は、幹線道路です。古くから開けた道なので、通行量が多いにもかかわらず狭くて信号も多く、歩道がない場所もある厄介な道路です。

本川の流路

本川は、スーパーTAIGAの先から道路の反対側に移動し、南警察署永田交番までまっすぐに流れていきます。

⑥永田町交番から細道へ

鎌倉街道の通町と東海道の保土ケ谷を結ぶ環状1号線と接する手前で、かもめパン裏の細道を抜けていきます。

かもめパンの裏手です。

弘明寺

永田交番から京浜急行ガードの先までは、江戸時代に弘明寺道と呼ばれた道です。弘明寺道は、東海道の保土ケ谷宿から古刹の弘明寺に至り、その先は上大岡から市立南高校の横を通り、港南区の日限山で、鎌倉古道として知られる中道と合流して鎌倉に到達します。「かながわの古道」では、このルートを鎌倉古道下ノ道と記載しており、中世の鎌倉街道だったのでしょう。

⑧堂の谷の池

永田川下流を紹介する前に、支流を確認しておきましょう。まず、堂の谷の池から始まる流れについてです。この溜井は、南永田団地の中央部にありました。

「公団ウォーカー」WEBによると、南永田団地は賃貸住宅1425戸、分譲住宅1035戸を擁する大規模団地で、昭和49年に入居が開始されました。

上の図は賃貸エリアで、この下に分譲の1街区がありますから、まさに南区最大。団地のお祭りでは、花火が上がります。

堂の谷の池は、青い実線で囲んだあたりにありました。標高40mほどの位置にあり、下流の永田小学校からは20m以上も高い場所です。こんなところに溜池があったのかと疑いたくなりますが、周囲を60m級の高台に囲まれ、すり鉢状の窪地になっているのです。雨水や地下水がここに溜まり、それを灌漑用水として利用したのでしょう。

堂の谷の池があったのは、この辺です。

⑨南永田団地バス停

川は、南永田団地バス停の先を、永田台小学校から右に流れていきます。

ここから一気に10mほど下降していますが、当時の流路がどのようであったのか、ちょっとわかりません。

⑩永田小学校

永田小学校のグランドのきわを通り、裏門から外へ抜けていきます。

北永田は、複雑に入り組んだ高台を縫うようにして平地が広がっています。この土地を利用して、稲作が行われていました。「南区の歴史」によると、江戸末期の永田村の石高は424石余で、戸数は55戸でした。農地の半分は畑で、そこでは麦や大豆、野菜などを耕作していたようです。

永田川の源流がすべて溜井であることが、この川が灌漑用水として利用されていたことを物語っています。田畑が宅地に姿を変えていくとともに溜井が消滅し、川も埋め立てられていったのです。

春日神

永田小の裏門から道なりに流れてきた永田川は、春日神社の参道を通って本川と合流します。

「新編武蔵国風土記稿」に、春日神社は永田村の鎮守社で祭礼は9月11日。また、7月7日には村人が網代の的を射て奉納すると書かれています。「南区の歴史」に、昭和初期に行われた祭礼の写真が掲載されていますが、盛況だったようです。

春日神社の参道を下る支流と左奥からの本流がスーパーTAIGAの前で合流し、右に流れていきます。

⑫東の溜井

さて、次に二つ目の支流について見ていきます。坂の下あたりが、溜井の場所です。低い位置にあることがわかるでしょう。

⑬川の痕跡

ここからは、京浜急行のガードを過ぎた先の、下流を見ていきます。

⑭井土ヶ谷小学校入口

川は井土ヶ谷小学校の敷地を通り、門の外へ流れ出していました。

⑮平戸桜木道路と合流

南郵便局の横から平戸桜木道路に出て、道の左を流れていました。

⑯井土ヶ谷交差点

平戸桜木道路と環状1号が交差する五叉路です。交通量の多い道路ですが、永田川はここを貫いて流れていました。川は幹線ではなく、蒔田中学校へ向かう脇道に向かいます。

⑰南センター入口信号

平戸桜木道路を何度か横断しながら、大岡川に近づいてきました。

⑱下の前公園

下の前公園は矩形ではなくてゆるやかな丸みがあり、流路の跡に整備された公園であることがわかります。

大岡川との合流地点

永田川は、南区南太田2丁目32付近で大岡川と合流します。右が市立横浜商業高校の野球部グラウンド、左はテニスコートです。永田川は埋め立てられましたが、河口までの300mほどは、南太田地区一帯の雨水吐出口として利用されています。

(2022年7月記)

 

横浜の川を歩く23 鳥山川

鳥山川(とりやまがわ)は鶴見川水系一級河川で、横浜市神奈川区羽沢町を源流として八反橋の手前で鳥山川左支川(ひだりしせん)と合流し、港北区新横浜で鶴見川に流れ込んでいます。国土交通大臣管理が1,870m、横浜市長管理は2,310mですが、普通河川も含めた総延長は5,500mほどです。

このあたりは江戸時代に鳥山村と呼ばれていましたので、それが名前の由来なのでしょう。

鳥山川の源流は、相鉄バスの坂下バス停から少し先、東海道新幹線の高架下にあります。バス停の名前でもわかるように、ここから上星川まで上り坂が続きます。この先は雨水管とつながっています。

源流から600m、青蓮寺付近です。

神奈川生花市場付近では、東海道新幹線の下を横断しています。鳥山川は新幹線と並行しながら、2kmほどの間に高架を4回もくぐります。

横浜市営バスの天屋停留所付近は、川が整備されています。左手の高架は、第三京浜です。

鳥山川左支川と合流する三角地帯に、鳥山川遊水地があります。44000m3を貯留できる、2段式プールのような貯水池が地下に設置されています。

貯水地の上は「三枚町第三公園」で、この下に大規模な貯水池が隠れていることを知らない人も多いでしょう。写真の男性が見おろしている場所を鳥山川が流れており、増水した雨水を引き込む横越流堤があります。

鳥山川本川と左支川の合流地点です。トンネルから流れ込んでいるのが支川で、鳥山川遊水地から撮影しています。

鳥山川左支川の源流です。保土ケ谷区神奈川区の境界が分水嶺になっていて、神奈川区羽沢町の「羽沢松原公園」付近から流れ出しています。

源流付近は荒れた状態ですが、左が歩行者道になっていて、200mほど先のバス通りに続いています。

鳥山川左支川は、環状2号線の八反橋と国道16号の梅の木をつなぐバス通りに沿って流れています。ここは源流から500mほどの地点。

羽沢の道祖神です。幹線道路から一本はずれた細道に鎮座していますが、過去には、この道が主要路だったのでしょう。坂の先には羽沢富士もあります。

羽沢富士です。富士塚は富士山を模して造営された小山で、気軽に富士登山などできなかった江戸時代の人たちは、富士塚に登ることで富士参詣を疑似体験していたのです。「はまれぽ」によれば、横浜には40基ほどの富士塚があったそうで、有名な川和富士、山田富士、池辺富士には私も登りましたが、それぞれ趣が違って楽しめました。

横浜市議会議員であった故福田進氏は、神奈川区に残る三ヶ所の富士塚を、「この富士塚のすぐそばに住む私の友人は、6月1日の浅間様のお祭りには「富士詣」といって、仲間6人と白い行衣に手甲脚絆で数珠を掛け、杖をついて鈴を鳴らしながら3か所の富士塚にお参りをしています。戦前には、大勢で羽沢、中村、熊野堂(最勝寺)、小机、東本郷、鴨居と巡礼し、芝生村浅間下(西区浅間町)の浅間神社で最終のお参りをしたそうです」と、ブログで紹介していらっしゃいます。

源流から約1700m下流第三京浜道路の下です。

支川との合流地点から500mほど下流で、川上を撮影。左手の片倉地区は河岸段丘になっていて、高低差が15mほどあります。

新幹線の高架を抜けたところで、右から流れ込む砂田川と合流します。この先は岸根の交差点で、新横浜の市街地が近づいてきました。

鎌倉時代初期の武将であった佐々木高綱は、宇治川の戦いに出陣したとき、源頼朝から賜った名馬生唼(いけづき)を駆って先陣の功を上げました。「新編武蔵国風土記稿」には、以下のように書かれています。

「駒形社 字稲荷下にあり。小祠なり。相伝ふ昔佐々木高綱が乗馬生喰(生唼のこと)といへる駿足の死せしとき爰へ埋みて神に祀れりと」

それが、この馬頭観世音堂です。

「新編武蔵国風土記稿」では、鳥山の地に佐々木高綱の所領があったことも伝えています。そのとき、この地を管理したのが目代の鳥山左衛門等で、彼の名が地名の起こりともいわれています。また、水田の中に島のような陸地があって、「嶋」を偏とつくりに分けて鳥山と呼んだとの説も紹介しています。

高綱は「平家物語」や「源平盛衰記」にも登場する名高い武士です。地域からも愛されているようで、ビールなどがたくさん供えてありました。

鳥山川の上を、緑ラインの横浜線が通り過ぎていきます。

又口橋から100mほど下ると、川のほとりに地蔵尊の祠があります。昭和51年3月に出版された「港北百話」に、地域の言伝えとして、この地蔵尊の由来が語られています。その内容を要約すると、次のとおりです。

天保の大飢饉のおりに多くの乞食が餓死したため、ここに埋葬して墓標の松を植え、この松を乞食松と呼んだ。それから時を経ずしてひとりの乞食僧が鳥山川の土手に住みつき、村の家々を回って仏法の功徳を解いた。この僧は空腹と虫歯に苦しみながら亡くなったが、いまわのきわに「我れ虫歯に悩むこと積年である。後世同じ病を患うもの、我を祈らばまさに利益を与えるであろう」ということばを残した。僧を敬っていた村人は、彼を名僧か地蔵菩薩の化身ではないかと思い、乞食松のところに埋めて地蔵尊を安置し、手厚く葬った。
その後、お地蔵様にはご利益があるという話が広がり、特に虫歯に悩む人にはよく効くといわれた。お参りして願をかけるとき、地蔵様に乗っている小石を借りて痛む歯のところをさすると、たちまち治ってしまう。お礼として、おにぎりや花、線香を手向けるとともに、小石を倍にして返したそうだ。

天保の大飢饉江戸三大飢饉のひとつで、天保7年頃をピークに、125万人以上が亡くなったといわれています(ウィキペディアより)。地蔵尊天保13年12月建立と刻まれていますので、年代は合致しているようです。

乞食松地蔵尊の祠は河川改修のため現在地に移動し、側に植えられている松は二代目だそうです。地域の信仰は今でも篤いようで、卒塔婆が供えられ、植栽も整備されていました。

源流から新横浜の手前までは遊歩道や水遊びのできる場所がほとんど無く、見どころの少ない鳥山川ですが、横浜線を抜けてから鶴見川に合流するまでの1200mは景色が一変します。

左前方に巨大宇宙船のような日産スタジアムがそびえ、そのまわりには広大な新横浜公園(多目的遊水地)が広がり、河畔右手のグリーンベルトには開放的な公園があって、河口まで続いています。横浜アリーナ新横浜ラーメン博物館などの名所もあり、スポーツや行楽の人たちがたくさん行き交う、華やかな空間です。

ワールドカップ大橋から、鳥山大橋と三角橋をのぞむ。右手の建物は,横浜労災病院です。

鶴見川がゆったりと流れています。労災病院の向こうに日産スタジアム、はるか先の右手が小机城址です。右端に見える白い塔は、高速神奈川7号横浜北線の新横浜換気塔です。2017年度のグッドデザイン賞を受賞しました。

左前方に見えるワールドカップ大橋のあたりが鳥山川の河口になりますが、植物が繁茂して、川がまったく見えません。

(2022年7月記)

横浜の川を歩く22 柏尾川

柏尾川(かしおがわ)は、境川水系の二級河川。全長は12kmほどで、横浜市域が7.03km、藤沢土木管理が5.2kmです。阿久和川と平戸永谷川が合流したところから柏尾川と名を変え、横浜市戸塚区・栄区鎌倉市藤沢市を流れて境川に合流します。

右から流れるのが阿久和川で、左は平戸永谷川です。この合流地点からは、柏尾川と名称が変わります。

正面に見えるトラス橋は、国道1号戸塚跨線橋。大磯町に居住していた吉田茂首相が、東京へ往復するとき戸塚駅踏切が渋滞することに業を煮やして、昭和28年(1953)に建設を決めたバイパス道路です。ワンマン宰相とあだ名された吉田茂の名を取って、ワンマン道路とも呼ばれています。

箱根駅伝の2区で、権太坂とともに難所として知られる不動坂の登りがここから始まります。

江戸時代は大山信仰が盛んで、主要な参詣道路が12ありました。そのうちのひとつが「柏尾通・戸田通大山道」です。横浜市戸塚区柏尾で東海道から分かれ、岡津・長後・用田を経て相模川の戸田で渡船して大山に向かうルートでした(川島敏郎「大山詣り」)。大山道は不動坂信号手前で東海道(国道1号)から分岐しますが、ここに不動尊(道標)が建っています。それが、写真の「柏尾の大山道道標」です。

祠に祀られている道標は、石造りの不動明王像で、正徳3年(1713)の建立。「従是大山道」の道標は寛文10年(1670)のもので、他に2基の道標と灯籠、庚申塔があります(横浜市歴史博物館ウェブページ)。

東海道戸塚宿江戸方見付跡の碑です。

見付とは宿場の出入口のことで、ここで参勤交代の大名らを宿役人が出迎えました。そばに一里塚跡もあります。

歌川広重の「東海道五十三次 戸塚」(保永堂版)です。現在の同じ場所が下の写真。

ずいぶん味気ないというか・・・・・・。

柏尾川に架かるのが吉田大橋(正式名称は「大橋」)で、大名行列の毛槍を模した道路照明灯が、当時を偲ばせます。

吉田大橋から上流の川岸には桜が植えられ、花見の名所として知られています。橋の下から、満開の様子がチラリと見えています。

川は、戸塚駅ホームの下を流れていきます。

戸塚ポンプ場の排出口です。戸塚地区センター/図書館の地下にあり、雨水を31.9m3/秒の排水能力で柏尾川に放流します

戸塚ポンプ場は、豪雨時に浸水の危険性がある戸塚・吉田・矢部・柏尾町の雨水を柏尾川に排水して浸水を防ぐと共に、汚水を栄第二水再生センターに送水する中継ポンプ場です。(横浜市ウェブページ等)。

戸塚駅周辺の急速な宅地化により、柏尾川が氾濫する災害が起きています。昭和51年(1976)の集中豪雨による氾濫では矢部団地が浸水し、ボートで救出活動が行われました(ウィキペディア)。昭和54年秋から稼働したこのポンプ場の活躍もあり、その後は管轄区域での河川氾濫は起きていません。

富塚八幡宮狛犬天保十二年の銘があり、作者は鶴見村の吉六。狛犬ファンの間では吉六狛犬の愛称で知られる名品です。この写真は吽像ですが、阿像の姿形の見事なこと。ぜひ現場で確認してください。

富塚八幡宮の裏山に古墳があり、これを富塚(トミツカ)と称し、やがて「トツカ」となったのが「戸塚」の地名の起りと伝えられています(神奈川県神社庁ウェブページ)。

谷戸のおおわらじ。

横浜市地域有形民俗文化財です。全長3.5m、重量は200kgで、家内安全、五穀豊穣の願いがこめられています。歴史は意外に新しく、大正時代から作られるようになりました。

栄第二水再生センターに送られた汚水を活性汚泥法により高級処理し、柏尾川に放流しています(横浜市ウェブページ)。

川の真ん中に高いコンクリート塀が築かれています。右は金井遊水地で、柏尾川の氾濫水を貯留します。通常はビオトープのように水鳥や水棲動物が憩い、住民の目を楽しませています。オオヨシキリカイツブリなどの珍しい鳥もいるそうです。私が取材したときは、ウシガエルが鳴いていました。この遊水地は神奈川県の所管らしいのですが詳細は不明。

金井公園の照明灯が見えています。ここには野球場、テニスコート、多目的運動広場があります。

支流のひとつ、大面川の合流口です。鎌倉市の関谷・城廻を源流とし、鎌倉市内では関谷川と呼ばれています。真上に高速横浜環状南線が建設中で、川の下流は完全に覆われてしまいました。

横浜環状南線は、国道1号の戸塚ICと横浜横須賀道路の釜利谷JCTをつなぐ、約8.9kmの一般国道で、2025年度開通予定です。大面川河口の栄IC・JCTが完成すると、2024年度に開通予定の横浜湘南道路(藤沢ICまでの7.5kmの自動車専用道路)にも接続します。

定泉寺です。このお寺には、「田谷(たや)の洞窟」と呼ばれる史跡があります。全長約570m(参拝路は300m)の洞窟内には諸仏だけでなく、獅子や龍など250余点のすばらしいレリーフが彫られており、横浜屈指の隠れた名所です。

洞窟は狭く入り組んでおり、かがまねばならない通路もありますから、車椅子などでは入れません。

大船観音寺白衣観音像(大船観音)です。東京へ向かう東海道線の車内からご覧になった方もいらっしゃるのでは。

昭和4年(1929)に着工されたものの、戦争による資材不足などのために中断し、完成したのは昭和35年(1960)。高さは25mですが、標高が50mほどの小山に鎮座しているので、大きく見えます。
深閑とした境内から純白の観音像を見上げると、おごそかでありながら慈愛に満ちたお姿に心が洗われる思いでした。

境内から、大船駅付近の柏尾川を望む。

大船駅から柏尾川に沿って辻堂方面に約1km進むと、総面積63,900平方メートルの大船フラワーセンターがあります。ここでは3,000品種ほどの植物を観賞することができます。神奈川県立ですが、指定管理者の「アメニス大船フラワーセンターグループ」(日比谷花壇)が運営しています。

支流の小袋谷川が流れ込んでいます。大船駅の下から合流する砂押川とともに、鎌倉市管理の準用河川です。横浜市の川ではないので、取材していません。

境川(左手)との合流地点で、住所は藤沢市川名1-1です。境川はここから約4kmを流れ下り、片瀬江ノ島駅の横を抜けて相模湾に到達します。

(2022年6月記)

横浜の川を歩く21 六ツ川②(消えた川)

f:id:konjac-enma:20211201105305j:plain上の地図に赤い線で示したのが六ツ川です。「六ツ川①」では、上流を紹介しましたが、今回は住吉神社から下流をレポートします。下の地図をご覧ください。

f:id:konjac-enma:20211202112719p:plainこの流路は、1950(昭和25)年に横浜市建設局が作成した「横浜市三千分一地形図」に描かれたものをそのまま転記しています。1932(昭和7)年の地図もほぼ同じです。住吉神社の手前から大岡川の合流地点までが、地図符号の「被覆(木製)」で描写されているので、昭和7年以降は、表面を木の板で覆った水路だったのでしょう。

横浜市では1950(昭和25)年度から下水道の整備事業が始まり、1955(昭和30)年度末までに57万6309mの下水管が敷設されていますから(「横浜市史Ⅱ第2巻上29ページ)、この頃に埋め立てられ、流路のほとんどが雨水・汚水の下水管に変わったのでしょう。1957(昭和32)年の明細地図を見ると、すでに宅地になっています。昭和28年に発行された「横浜市精密大地図」(毎日新聞社)にも描かれていません。

f:id:konjac-enma:20211202105641p:plain家が背中合わせになっている空間は川の跡としか思えませんが、昭和25年の地図で示された流路から少し外れています。地図では道路に沿って流れていますが、もっと以前には、二本の道路の間を流れていたようなのです。大正から昭和初期の歴史地図には、そのように描かれています。下の地図をご覧ください。

f:id:konjac-enma:20211202113224p:plain建物の配置が不自然だったり、すき間があるところを赤線で引くと、大正から昭和初期の歴史地図に描かれている六ツ川と符合します。大正12年の関東大震災で多くの建物が倒壊した後、復興する過程で旧河川を埋め立て、道路沿いに移動させたのだろうと推測しています。1924(大正13)の調べで、井土ヶ谷町に居住する4195人のうち158人がバラック住まいでした。この年には幅22mの井土ヶ谷・通町線が築かれていますから(「南区の歴史」P.169,176)、この地区は再開発が進んだものと思われます。

f:id:konjac-enma:20211202130111p:plainここも川の跡なのでしょう。

f:id:konjac-enma:20211202130205p:plain鶴巻市場交差点。井土ヶ谷・通町線(環状1号)を横断して大岡川に向かいます。

f:id:konjac-enma:20211202130738p:plain大岡川との合流地点です。下水の合流管が埋設されていますが、川から見ることはできませんでした。

f:id:konjac-enma:20211129093637p:plainここからは再び上流に目を転じ、支流をたどります。

六ツ川と呼ばれるもとになった六つの谷を確認します。鮫ヶ谷・久保谷・マンカ谷・久田谷、荒戸谷・御堂谷がこれにあたり、「新編武蔵国風土記稿」にも記載されています(久田谷を除く)。ただし近代以降の地図には鮫ヶ谷しか載っていませんから、他の谷は「久良岐郡大岡川村引越 大正初期の各戸の俗称」という、地元の方が回想した絵図をもとにして地図に再現しました。絵図に久保田、萬谷戸と書かれているのが久保谷、マンカ谷なのでしょう。

現地を踏査し、支流とみられる痕跡をたどりました。5本の支流を確認することができましたが、これが六ツ川の元になった支流なのかはわかりません。

f:id:konjac-enma:20211202133227p:plain久田谷にある湧水で、「砂白自然の泉」と呼ばれています。宅地として開発されるまで、清流が六ツ川に注いでいたのでしょう。

f:id:konjac-enma:20211202133746p:plain荒戸谷の支流です。三方を高台に囲まれた狭隘地で、今でも水がしみ出しています。

f:id:konjac-enma:20211202134010p:plain御堂谷は西側が崖のように切り立っていて、随所で水が湧き出ています。

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f:id:konjac-enma:20211202134653p:plain六つの谷に該当しませんが、六ツ川中央公園の谷地から流れ出しています。開渠で残る、貴重な支流です。

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f:id:konjac-enma:20211202135031p:plain鮫ヶ谷の支流です。こちらも開渠の部分があります。左の寺は定光寺です。

2回にわたるレポートで、ありし日の六ツ川を一程度再現できたと思っています。六ツ川橋から上流が埋め立てられた時期を確認する前に力尽きてしまいましたが、それはこれからの宿題ということで、今回はこの辺で終了とします。

(2021年12月記)

横浜の川を歩く20 六ツ川①(消えた川)

f:id:konjac-enma:20211128213326j:plain横浜市南区には六ツ川という町があります。1927(昭和2)年に横浜市編入されて六ツ川町となりましたが、江戸後期には引越村と呼ばれていました。変わった名前ですが「新編武蔵国風土記稿」に、多々久郷が五ヶ村に分かれたとき、その村々の民が引っ越して形成した村なので引越村と呼ばれている旨が記載されています。

この村が六ツ川町と名づけられた理由について、横浜市が1996(平成8)年に発行した「横浜の町名」によれば、昔の多々久郷が弘明寺村、中里村、別所村、最戸村、久保村、引越村の6ヶ村に分かれたことと、市に編入される前が大岡川村であったことにちなみ「六ツ川」となったそうですが、この地域にあった6つの谷戸から流れる谷川に由来するという別説も紹介されています。地元ではこちらの説が定着していて、南区制50周年記念誌「南・ひと・街・こころ」で、六ツ川の町名の由来について「この地域に鮫ヶ谷・久保谷・マンカ谷・久田谷、荒戸谷・御堂谷の六つの谷があり、これより流れ出る谷川が合流して、六ツ川と呼ばれるようになった」と記載されています。また、六ツ川音頭にも、この六つの谷が歌い込まれています。川の名が、そのまま町名になったというのです。

歴史地図や南区明細地図に、六ツ川町を流れる川が描かれています。この川を「六ツ川」と記載している地図を見つけることはできませんでしたが、「横濱南区 昭和むかし話」で、六ツ川在住の石井正雄さんが「夏になると子どもたちは大池で泳いで遊んだ。シジミが採れた。水門があって川(用水路)が流れていた。この川が六ツ川で、六つの沢が合流して一つになったというところからそう呼ばれたそうだ」と、思い出を語っていますから、この川が六ツ川なのでしょう。「はまれぽ」の記事でも、地元の女性がこの川を六ツ川と呼んでいます。

戦後復興から高度経済成長の過程で六ツ川は埋め立てられ、かつての清流は姿を消してしまいました。

失われた六ツ川の姿を地図上に再現する試みは、六ツ川地区の歴史を語り継ぐ手だての一つとして意義が大きいと思います。そこで今回の川めぐりは、「消えた川 第2弾」として、六ツ川を取り上げることにしました。

作成した地図について、ご注意いただきたいことがあります。地図を作成するため、上述した資料の他に

・明治39年頃の南区地図(「南区の歴史」)
・六ツ川が記載されている大正9年以降の歴史地図
・昭和32年から48年までの横浜市南区明細地図
横浜市三千分一地形図(昭和36年 横浜市建築局) 
久良岐郡大岡川村引越 大正初期の各戸の俗称(六ツ川台コミュニティハウス)
・公共下水道台帳図情報「だいちゃんマップ」(横浜市
国土地理院地図(陰影起伏図)
などを参照しました。明治期から現在までの資料をひとくくりにして、現時点で確認できる川の痕跡と照らし合わせながら地図に落とし込んでいます。大池小池は明治・大正期の絵地図、下流の川筋は横浜市建設局が昭和25年に作成した地図、支流は国土地理院の陰影起伏図と現地調査、上流の流路は、昭和34年の南区明細地図を基本に作成しています。時代の変遷にともなう景観の変化にこだわらず1枚の地図に仕上げていますから、特定の時期における六ツ川の様相を正確に表したものではないことをご了解ください。

源流の大池・小池から住吉神社までの流路を記した地図です。拡大すると見やすくなります。(※大岡川に流れ込む下流部分については「六ツ川②」でご紹介します)赤線が六ツ川の本流で、青線は支流です。そのほとんどは暗渠(雨水・下水路)となるか、埋め立てられ消滅しています。地図に記された番号の場所については写真がありますから、そちらの解説をご覧ください。

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f:id:konjac-enma:20211129105406p:plain小池があった六ツ川公園から、大池方面を撮影しました。「新編武蔵国風土記稿」にも「溜井三ヶ所」と記されています。地図に描いた池は、明治・大正期の資料などを参考にしたのですが、時代によって池の姿が変貌しているため、位置や形状はあくまでも推定です。

大正9年の豪雨で堤防が決壊して大池は湿地帯となり、その姿は失われてしまいました(「六ツ川大池地区連合自治会結成二十周年記念誌」より)。小池も昭和6年の地図に記載されていますが、昭和8年の地図にはありませんから、この頃に姿を消したのでしょう。

神奈川中央交通のバス停「大池」の名称が、かつての名残をとどめています。

f:id:konjac-enma:20211129134025p:plain正面奥の小池方面から平戸桜木道路を横断して裏道に入ります。明治39年頃の地図には引越坂方面(画面左手)からの流路も記されていますが、この地図では省略しました。上を通っているのは横浜横須賀道路です。

f:id:konjac-enma:20211129134318p:plain廃業したガソリンスタンド横の道路を曲がってからは、平戸桜木道路と並行して流れます。

f:id:konjac-enma:20211129135053p:plain別所に抜ける道路を横断します。

f:id:konjac-enma:20211129140403p:plain平戸桜木道路より1.5mほど低いところに流路があることがわかります。

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f:id:konjac-enma:20211129140925p:plain平戸桜木道路の右側をほぼ並行して流れていた六ツ川ですが、ここで道路の下から向こう側に抜けて行きます。昭和48年度版の南区明細地図では、この場所に「六ツ川橋」の記載があるので、橋が架かっていたのでしょう。左奥に見える建物は、定光寺です。

六ツ川橋から住吉神社の先まで、およそ1100mの区間は、一部を除いて昭和47年頃に埋め立てられたようです。

f:id:konjac-enma:20211129142817p:plain道路の片隅に石碑が2基建っています。

左は庚申供養橋塔で、1767(明和4)年の銘があります。橋を架け替えたり修理したときに供養を行い、建てられたのが橋供養塔なので、この年に架橋(あるいは修理)を行ったのでしょう。

右は百番供養塔です。西国三十三番、板東三十三番、秩父三十四番合わせて百ヶ所の観音霊場を村の代表者が巡礼したことを記念して建てられました。1799(寛政11)年銘で、願主は宮森氏です。

f:id:konjac-enma:20211129144106p:plain弘明寺へと向かう分かれ道に、2基の石碑が建っています。左は1780(安永9)年銘の庚申供養塔(道標)で、粟飯原忠左衛門建立。「くミやうし道」と彫られています。右は1776(安永5)年の道標で、「是より右くミやうし」と彫られ、願主は渋谷氏です。(「南区の歴史」の「金石一覧」より)

粟飯原(あいはら)氏と渋谷氏は先述の庚申供養橋塔にもその名がありますから、引越村の有力者だったのでしょう。石塔の後ろはアイハラビルで、粟飯原氏の居宅でした。

f:id:konjac-enma:20211130134113p:plain六ツ川は京浜急行の高架の脇を抜けて、線路の向こうに流れていきます。

f:id:konjac-enma:20211130134748p:plain京浜急行線をくぐった六ツ川は、線路に沿って井土ヶ谷方面に流れていきます。緑色のフェンスで囲まれた流路が,暗渠として残っています。右は平戸桜木道路です。

f:id:konjac-enma:20211130135511p:plainU字にカーブし、平戸桜木道路を横断して住吉神社へ向かいます。

f:id:konjac-enma:20211130135750p:plain住吉神社の前で左に折れ、そこから100mほど先までで「六ツ川①」は終了です。下流については「六ツ川②」でレポートしますが、なぜこの場所で分けたかというと、六ツ川橋からここまでの区間は1972(昭和47)年頃まで残っていましたが、「六ツ川②」で紹介する下流部分は戦後復興の中で埋め立てられ、遅くとも1957(昭和32)年には川として存在していませんでした。区切りとしてはちょうどいい場所です。

※六ツ川橋~住吉神社は、昭和47年の明細地図に川の記載がありますが、昭和48年の地図では消えています。また、下流部分は昭和25年の横浜市三千分一地形図に記載がありますが、昭和32年の明細地図では、すでに宅地になっています。昭和28年に発行された「横浜市精密大地図」(毎日新聞社)にも描かれていないので、昭和26~27年頃に埋め立てられたのかもしれません。

「六ツ川②」では大岡川に合流する下流部分と、六ツ川と呼ばれるきっかけになった、六つの谷から流れ込む支流についてレポートします。

(2021年11月記)

横浜の川を歩く19 宇田川

 

宇田川(うだがわ)は、境川水系の二級河川です。市長管理区間が3,520m、普通河川も含めると6,000mを超え、中流から上流にかけて支流が木の枝のように広がっています。

泉区役所のウェブページでは、およそ五筋ある水源のうち御霊(ごりょう)神社の弁天池を象徴的源流としています。たしかに、この川の源流を一か所に決めるのは難しい。国土地理院の陰影起伏図で確認すると、丘陵の間を流れる幾筋もの支流が、地下鉄立場駅、汲沢中学校、宇田川遊水地及びその下流あたりで何度も合流している様子が見て取れます。

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御霊神社の弁天池。池の水は参道の下を抜け、立場方面に流れていきます。

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明治12年2月にこの地を調査した明治政府は「皇国地誌」に、宇田川について源流の中田村から深谷村までを村岡川と記載しています。弁天池に建てられている石碑にも「村岡川源流」と彫られていますが、現在は川全体が宇田川と決められています。

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弁天池がある御霊神社は天正年間(1573-1592)に創建された中田村の鎮守で、明治6年に村社となった由緒ある神社です。境内には中和田小学校の奉安殿(天皇・皇后の写真と教育勅語を納めた建物)をはじめ、古式消防器具保存庫、道しるべが彫られた庚申塔など、興味深い建造物があります。

上の写真は泉区で最も古い庚申塔で、寛文6(1666)年に建てられました。塔身の四面には、南無阿弥陀仏の名号が刻まれ、正面には耳を、向かって左側面には口を、右側面には目をふさいだ猿がそれぞれ浮き彫りにされています。

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宇田川は、市営地下鉄踊場駅から立場駅までの長後街道と並行する区間(距離約2km)を、幾筋もの支流となって縦断していきます。写真の場所は中田中学校入口交差点で、このあたりは暗渠になっています。

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立場駅裏の大規模店舗「イトーヨーカドー」の横を流れる支流。ここも暗渠になっています。水源は弁天池ではなく、中田北西部の芝原あたりです。

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弁天池と中田北西部、それぞれの流れが合流しています。右が弁天池からの流れです。

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弁天池の源流から約3km下流の汲沢中学校付近。ここには水位観測地点があり、5分間隔で観測した情報が横浜市の河川水位情報サイトで公開されています。

中学校名の「汲沢」は、「ぐみさわ」。知らないと読めない名前です。そのうえ住所の地名は「ぐみざわ」と濁るから、ますますややこしいですね。難解字つながりで、読めない名前をもうひとつ。港南区に「下車ヶ谷」というバス停がありますが、「かしゃげと」と読みます。変わった地名が多い横浜でも、これがナンバーワンでしょう。

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宇田川の中流域にはたくさんの小魚が群れていました。今まで見てきた横浜の川ではダントツに多いと感じます。

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宇田川に生息する生き物を紹介したパネルによれば、この魚はアブラハヤらしい。

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川が弓なりに曲がっています。カーブに沿って左手には直径約1kmの円形をした米軍基地「深谷通信所」がありました。2014年に返還されましたが、一部がグランドとして利用されている他は原っぱのまま残っています。今後は「緑でつながる魅力的な円形空間」として、スポーツ施設や公園として整備するそうです。

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平成22年度に完成した宇田川遊水地です。面積は150m×50mほどですが、地下に2階構造の貯留池が整備されているので、見かけ以上の規模があります。貯留量は65,000m3で、横浜市が管理する遊水地では3番目の規模を誇っています。

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増水したとき、地下へ水を貯留するための取水口です。向こう側の公園も、地下が貯留池になっています。

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宇田川は、まさかりが淵市民の森公園に沿って流れていきます。ここには公園名の由来となった「まさかりが淵」があります。境川との合流地点から2km上流の場所です。幅約8m、高さが約3.5mある人工の滝ですが、かつては本物の滝があったようで、滝の名前にまつわる昔話が、案内板に書かれていました。要約すると、

むかしむかし、この滝の裏に大蛇が住んでいた。ある日、村の男が木を切っているときに手をすべらせ、まさかりを滝に落としてしまった。滝つぼを覗いたら、きれいな姫様が機織りしているのが見える。そこで男は声をかけ、まさかりを拾ってもらった。姫様は「私はここの主です。私のことを人に話すと、あなたの命はなくなります」といって渡してくれた。村に帰った男は、姫との約束を破ってこのことを母親に話したため、たちどころに死んでしまった。それからこの滝をまさかりが淵と呼ぶようになった。

という話です。お姫様は、大蛇が化身した姿だったのでしょうね。

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まさかりが淵のあたりには、野趣あふれる風景が残っています。

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境川との合流地点。右奥から流れてくるのが宇田川です。和風屋根の高層建築は、2002年に閉園した横浜ドリームランドに併設されていた「ホテルエンパイア」で、現在は横浜薬科大学の図書館棟として使われています。

和泉川・阿久和川・宇田川と、泉区の川を巡ってきましたが、泉区という名前のとおり、支流がたくさんあって水の豊富な区であるとあらためて実感しました。

(2021年11月記)