横浜の川を歩く21 六ツ川②(消えた川)

f:id:konjac-enma:20211201105305j:plain上の地図に赤い線で示したのが六ツ川です。「六ツ川①」では、上流を紹介しましたが、今回は住吉神社から下流をレポートします。下の地図をご覧ください。

f:id:konjac-enma:20211202112719p:plainこの流路は、1950(昭和25)年に横浜市建設局が作成した「横浜市三千分一地形図」に描かれたものをそのまま転記しています。1932(昭和7)年の地図もほぼ同じです。住吉神社の手前から大岡川の合流地点までが、地図符号の「被覆(木製)」で描写されているので、昭和7年以降は、表面を木の板で覆った水路だったのでしょう。

横浜市では1950(昭和25)年度から下水道の整備事業が始まり、1955(昭和30)年度末までに57万6309mの下水管が敷設されていますから(「横浜市史Ⅱ第2巻上29ページ)、この頃に埋め立てられ、流路のほとんどが雨水・汚水の下水管に変わったのでしょう。1957(昭和32)年の明細地図を見ると、すでに宅地になっています。昭和28年に発行された「横浜市精密大地図」(毎日新聞社)にも描かれていません。

f:id:konjac-enma:20211202105641p:plain家が背中合わせになっている空間は川の跡としか思えませんが、昭和25年の地図で示された流路から少し外れています。地図では道路に沿って流れていますが、もっと以前には、二本の道路の間を流れていたようなのです。大正から昭和初期の歴史地図には、そのように描かれています。下の地図をご覧ください。

f:id:konjac-enma:20211202113224p:plain建物の配置が不自然だったり、すき間があるところを赤線で引くと、大正から昭和初期の歴史地図に描かれている六ツ川と符合します。大正12年の関東大震災で多くの建物が倒壊した後、復興する過程で旧河川を埋め立て、道路沿いに移動させたのだろうと推測しています。1924(大正13)の調べで、井土ヶ谷町に居住する4195人のうち158人がバラック住まいでした。この年には幅22mの井土ヶ谷・通町線が築かれていますから(「南区の歴史」P.169,176)、この地区は再開発が進んだものと思われます。

f:id:konjac-enma:20211202130111p:plainここも川の跡なのでしょう。

f:id:konjac-enma:20211202130205p:plain鶴巻市場交差点。井土ヶ谷・通町線(環状1号)を横断して大岡川に向かいます。

f:id:konjac-enma:20211202130738p:plain大岡川との合流地点です。下水の合流管が埋設されていますが、川から見ることはできませんでした。

f:id:konjac-enma:20211129093637p:plainここからは再び上流に目を転じ、支流をたどります。

六ツ川と呼ばれるもとになった六つの谷を確認します。鮫ヶ谷・久保谷・マンカ谷・久田谷、荒戸谷・御堂谷がこれにあたり、「新編武蔵国風土記稿」にも記載されています(久田谷を除く)。ただし近代以降の地図には鮫ヶ谷しか載っていませんから、他の谷は「久良岐郡大岡川村引越 大正初期の各戸の俗称」という、地元の方が回想した絵図をもとにして地図に再現しました。絵図に久保田、萬谷戸と書かれているのが久保谷、マンカ谷なのでしょう。

現地を踏査し、支流とみられる痕跡をたどりました。5本の支流を確認することができましたが、これが六ツ川の元になった支流なのかはわかりません。

f:id:konjac-enma:20211202133227p:plain久田谷にある湧水で、「砂白自然の泉」と呼ばれています。宅地として開発されるまで、清流が六ツ川に注いでいたのでしょう。

f:id:konjac-enma:20211202133746p:plain荒戸谷の支流です。三方を高台に囲まれた狭隘地で、今でも水がしみ出しています。

f:id:konjac-enma:20211202134010p:plain御堂谷は西側が崖のように切り立っていて、随所で水が湧き出ています。

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f:id:konjac-enma:20211202134653p:plain六つの谷に該当しませんが、六ツ川中央公園の谷地から流れ出しています。開渠で残る、貴重な支流です。

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f:id:konjac-enma:20211202135031p:plain鮫ヶ谷の支流です。こちらも開渠の部分があります。左の寺は定光寺です。

2回にわたるレポートで、ありし日の六ツ川を一程度再現できたと思っています。六ツ川橋から上流が埋め立てられた時期を確認する前に力尽きてしまいましたが、それはこれからの宿題ということで、今回はこの辺で終了とします。

(2021年12月記)

横浜の川を歩く20 六ツ川①(消えた川)

f:id:konjac-enma:20211128213326j:plain横浜市南区には六ツ川という町があります。1927(昭和2)年に横浜市編入されて六ツ川町となりましたが、江戸後期には引越村と呼ばれていました。変わった名前ですが「新編武蔵国風土記稿」に、多々久郷が五ヶ村に分かれたとき、その村々の民が引っ越して形成した村なので引越村と呼ばれている旨が記載されています。

この村が六ツ川町と名づけられた理由について、横浜市が1996(平成8)年に発行した「横浜の町名」によれば、昔の多々久郷が弘明寺村、中里村、別所村、最戸村、久保村、引越村の6ヶ村に分かれたことと、市に編入される前が大岡川村であったことにちなみ「六ツ川」となったそうですが、この地域にあった6つの谷戸から流れる谷川に由来するという別説も紹介されています。地元ではこちらの説が定着していて、南区制50周年記念誌「南・ひと・街・こころ」で、六ツ川の町名の由来について「この地域に鮫ヶ谷・久保谷・マンカ谷・久田谷、荒戸谷・御堂谷の六つの谷があり、これより流れ出る谷川が合流して、六ツ川と呼ばれるようになった」と記載されています。また、六ツ川音頭にも、この六つの谷が歌い込まれています。川の名が、そのまま町名になったというのです。

歴史地図や南区明細地図に、六ツ川町を流れる川が描かれています。この川を「六ツ川」と記載している地図を見つけることはできませんでしたが、「横濱南区 昭和むかし話」で、六ツ川在住の石井正雄さんが「夏になると子どもたちは大池で泳いで遊んだ。シジミが採れた。水門があって川(用水路)が流れていた。この川が六ツ川で、六つの沢が合流して一つになったというところからそう呼ばれたそうだ」と、思い出を語っていますから、この川が六ツ川なのでしょう。「はまれぽ」の記事でも、地元の女性がこの川を六ツ川と呼んでいます。

戦後復興から高度経済成長の過程で六ツ川は埋め立てられ、かつての清流は姿を消してしまいました。

失われた六ツ川の姿を地図上に再現する試みは、六ツ川地区の歴史を語り継ぐ手だての一つとして意義が大きいと思います。そこで今回の川めぐりは、「消えた川 第2弾」として、六ツ川を取り上げることにしました。

作成した地図について、ご注意いただきたいことがあります。地図を作成するため、上述した資料の他に

・明治39年頃の南区地図(「南区の歴史」)
・六ツ川が記載されている大正9年以降の歴史地図
・昭和32年から48年までの横浜市南区明細地図
横浜市三千分一地形図(昭和36年 横浜市建築局) 
久良岐郡大岡川村引越 大正初期の各戸の俗称(六ツ川台コミュニティハウス)
・公共下水道台帳図情報「だいちゃんマップ」(横浜市
国土地理院地図(陰影起伏図)
などを参照しました。明治期から現在までの資料をひとくくりにして、現時点で確認できる川の痕跡と照らし合わせながら地図に落とし込んでいます。大池小池は明治・大正期の絵地図、下流の川筋は横浜市建設局が昭和25年に作成した地図、支流は国土地理院の陰影起伏図と現地調査、上流の流路は、昭和34年の南区明細地図を基本に作成しています。時代の変遷にともなう景観の変化にこだわらず1枚の地図に仕上げていますから、特定の時期における六ツ川の様相を正確に表したものではないことをご了解ください。

源流の大池・小池から住吉神社までの流路を記した地図です。拡大すると見やすくなります。(※大岡川に流れ込む下流部分については「六ツ川②」でご紹介します)赤線が六ツ川の本流で、青線は支流です。そのほとんどは暗渠(雨水・下水路)となるか、埋め立てられ消滅しています。地図に記された番号の場所については写真がありますから、そちらの解説をご覧ください。

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f:id:konjac-enma:20211129105406p:plain小池があった六ツ川公園から、大池方面を撮影しました。「新編武蔵国風土記稿」にも「溜井三ヶ所」と記されています。地図に描いた池は、明治・大正期の資料などを参考にしたのですが、時代によって池の姿が変貌しているため、位置や形状はあくまでも推定です。

大正9年の豪雨で堤防が決壊して大池は湿地帯となり、その姿は失われてしまいました(「六ツ川大池地区連合自治会結成二十周年記念誌」より)。小池も昭和6年の地図に記載されていますが、昭和8年の地図にはありませんから、この頃に姿を消したのでしょう。

神奈川中央交通のバス停「大池」の名称が、かつての名残をとどめています。

f:id:konjac-enma:20211129134025p:plain正面奥の小池方面から平戸桜木道路を横断して裏道に入ります。明治39年頃の地図には引越坂方面(画面左手)からの流路も記されていますが、この地図では省略しました。上を通っているのは横浜横須賀道路です。

f:id:konjac-enma:20211129134318p:plain廃業したガソリンスタンド横の道路を曲がってからは、平戸桜木道路と並行して流れます。

f:id:konjac-enma:20211129135053p:plain別所に抜ける道路を横断します。

f:id:konjac-enma:20211129140403p:plain平戸桜木道路より1.5mほど低いところに流路があることがわかります。

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f:id:konjac-enma:20211129140925p:plain平戸桜木道路の右側をほぼ並行して流れていた六ツ川ですが、ここで道路の下から向こう側に抜けて行きます。昭和48年度版の南区明細地図では、この場所に「六ツ川橋」の記載があるので、橋が架かっていたのでしょう。左奥に見える建物は、定光寺です。

六ツ川橋から住吉神社の先まで、およそ1100mの区間は、一部を除いて昭和47年頃に埋め立てられたようです。

f:id:konjac-enma:20211129142817p:plain道路の片隅に石碑が2基建っています。

左は庚申供養橋塔で、1767(明和4)年の銘があります。橋を架け替えたり修理したときに供養を行い、建てられたのが橋供養塔なので、この年に架橋(あるいは修理)を行ったのでしょう。

右は百番供養塔です。西国三十三番、板東三十三番、秩父三十四番合わせて百ヶ所の観音霊場を村の代表者が巡礼したことを記念して建てられました。1799(寛政11)年銘で、願主は宮森氏です。

f:id:konjac-enma:20211129144106p:plain弘明寺へと向かう分かれ道に、2基の石碑が建っています。左は1780(安永9)年銘の庚申供養塔(道標)で、粟飯原忠左衛門建立。「くミやうし道」と彫られています。右は1776(安永5)年の道標で、「是より右くミやうし」と彫られ、願主は渋谷氏です。(「南区の歴史」の「金石一覧」より)

粟飯原(あいはら)氏と渋谷氏は先述の庚申供養橋塔にもその名がありますから、引越村の有力者だったのでしょう。石塔の後ろはアイハラビルで、粟飯原氏の居宅でした。

f:id:konjac-enma:20211130134113p:plain六ツ川は京浜急行の高架の脇を抜けて、線路の向こうに流れていきます。

f:id:konjac-enma:20211130134748p:plain京浜急行線をくぐった六ツ川は、線路に沿って井土ヶ谷方面に流れていきます。緑色のフェンスで囲まれた流路が,暗渠として残っています。右は平戸桜木道路です。

f:id:konjac-enma:20211130135511p:plainU字にカーブし、平戸桜木道路を横断して住吉神社へ向かいます。

f:id:konjac-enma:20211130135750p:plain住吉神社の前で左に折れ、そこから100mほど先までで「六ツ川①」は終了です。下流については「六ツ川②」でレポートしますが、なぜこの場所で分けたかというと、六ツ川橋からここまでの区間は1972(昭和47)年頃まで残っていましたが、「六ツ川②」で紹介する下流部分は戦後復興の中で埋め立てられ、遅くとも1957(昭和32)年には川として存在していませんでした。区切りとしてはちょうどいい場所です。

※六ツ川橋~住吉神社は、昭和47年の明細地図に川の記載がありますが、昭和48年の地図では消えています。また、下流部分は昭和25年の横浜市三千分一地形図に記載がありますが、昭和32年の明細地図では、すでに宅地になっています。昭和28年に発行された「横浜市精密大地図」(毎日新聞社)にも描かれていないので、昭和26~27年頃に埋め立てられたのかもしれません。

「六ツ川②」では大岡川に合流する下流部分と、六ツ川と呼ばれるきっかけになった、六つの谷から流れ込む支流についてレポートします。

(2021年11月記)

横浜の川を歩く19 宇田川

 

宇田川(うだがわ)は、境川水系の二級河川です。市長管理区間が3,520m、普通河川も含めると6,000mを超え、中流から上流にかけて支流が木の枝のように広がっています。

泉区役所のウェブページでは、およそ五筋ある水源のうち御霊(ごりょう)神社の弁天池を象徴的源流としています。たしかに、この川の源流を一か所に決めるのは難しい。国土地理院の陰影起伏図で確認すると、丘陵の間を流れる幾筋もの支流が、地下鉄立場駅、汲沢中学校、宇田川遊水地及びその下流あたりで何度も合流している様子が見て取れます。

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御霊神社の弁天池。池の水は参道の下を抜け、立場方面に流れていきます。

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明治12年2月にこの地を調査した明治政府は「皇国地誌」に、宇田川について源流の中田村から深谷村までを村岡川と記載しています。弁天池に建てられている石碑にも「村岡川源流」と彫られていますが、現在は川全体が宇田川と決められています。

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弁天池がある御霊神社は天正年間(1573-1592)に創建された中田村の鎮守で、明治6年に村社となった由緒ある神社です。境内には中和田小学校の奉安殿(天皇・皇后の写真と教育勅語を納めた建物)をはじめ、古式消防器具保存庫、道しるべが彫られた庚申塔など、興味深い建造物があります。

上の写真は泉区で最も古い庚申塔で、寛文6(1666)年に建てられました。塔身の四面には、南無阿弥陀仏の名号が刻まれ、正面には耳を、向かって左側面には口を、右側面には目をふさいだ猿がそれぞれ浮き彫りにされています。

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宇田川は、市営地下鉄踊場駅から立場駅までの長後街道と並行する区間(距離約2km)を、幾筋もの支流となって縦断していきます。写真の場所は中田中学校入口交差点で、このあたりは暗渠になっています。

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立場駅裏の大規模店舗「イトーヨーカドー」の横を流れる支流。ここも暗渠になっています。水源は弁天池ではなく、中田北西部の芝原あたりです。

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弁天池と中田北西部、それぞれの流れが合流しています。右が弁天池からの流れです。

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弁天池の源流から約3km下流の汲沢中学校付近。ここには水位観測地点があり、5分間隔で観測した情報が横浜市の河川水位情報サイトで公開されています。

中学校名の「汲沢」は、「ぐみさわ」。知らないと読めない名前です。そのうえ住所の地名は「ぐみざわ」と濁るから、ますますややこしいですね。難解字つながりで、読めない名前をもうひとつ。港南区に「下車ヶ谷」というバス停がありますが、「かしゃげと」と読みます。変わった地名が多い横浜でも、これがナンバーワンでしょう。

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宇田川の中流域にはたくさんの小魚が群れていました。今まで見てきた横浜の川ではダントツに多いと感じます。

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宇田川に生息する生き物を紹介したパネルによれば、この魚はアブラハヤらしい。

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川が弓なりに曲がっています。カーブに沿って左手には直径約1kmの円形をした米軍基地「深谷通信所」がありました。2014年に返還されましたが、一部がグランドとして利用されている他は原っぱのまま残っています。今後は「緑でつながる魅力的な円形空間」として、スポーツ施設や公園として整備するそうです。

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平成22年度に完成した宇田川遊水地です。面積は150m×50mほどですが、地下に2階構造の貯留池が整備されているので、見かけ以上の規模があります。貯留量は65,000m3で、横浜市が管理する遊水地では3番目の規模を誇っています。

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増水したとき、地下へ水を貯留するための取水口です。向こう側の公園も、地下が貯留池になっています。

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宇田川は、まさかりが淵市民の森公園に沿って流れていきます。ここには公園名の由来となった「まさかりが淵」があります。境川との合流地点から2km上流の場所です。幅約8m、高さが約3.5mある人工の滝ですが、かつては本物の滝があったようで、滝の名前にまつわる昔話が、案内板に書かれていました。要約すると、

むかしむかし、この滝の裏に大蛇が住んでいた。ある日、村の男が木を切っているときに手をすべらせ、まさかりを滝に落としてしまった。滝つぼを覗いたら、きれいな姫様が機織りしているのが見える。そこで男は声をかけ、まさかりを拾ってもらった。姫様は「私はここの主です。私のことを人に話すと、あなたの命はなくなります」といって渡してくれた。村に帰った男は、姫との約束を破ってこのことを母親に話したため、たちどころに死んでしまった。それからこの滝をまさかりが淵と呼ぶようになった。

という話です。お姫様は、大蛇が化身した姿だったのでしょうね。

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まさかりが淵のあたりには、野趣あふれる風景が残っています。

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境川との合流地点。右奥から流れてくるのが宇田川です。和風屋根の高層建築は、2002年に閉園した横浜ドリームランドに併設されていた「ホテルエンパイア」で、現在は横浜薬科大学の図書館棟として使われています。

和泉川・阿久和川・宇田川と、泉区の川を巡ってきましたが、泉区という名前のとおり、支流がたくさんあって水の豊富な区であるとあらためて実感しました。

(2021年11月記)

横浜の川を歩く18 和泉川

 

和泉川(いずみがわ)は境川水系の二級河川で、横浜市瀬谷区の「瀬谷市民の森」と周辺の湧水が源流である(「いずみ いまむかし」泉区小史発行委員会 平成8年)。総延長が9,510m(「横浜の川」横浜市道路局河川部)だから、境川水系の川としてはいちばん長い。そのうえ源流までを実測すると11km以上あるから、流域すべてをレポートするのはたいへんだ。そこで、源流域とめがね橋周辺、いずみ中央、境川遊水池付近を中心に紹介したい。

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源流その1。瀬谷市民の森は通らず、一里山ゴルフセンターの西を流れる。国土地理院の地図を見ると、この先も300mほど上流まで川が続いているが、途中で涸れているようだ。

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源流その2。一里山ゴルフセンターの東側を抜け、200mほど上流の場所だ。きれいに草が刈られているので、源流というより水路のようだ。

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源流その3。瀬谷市民の森に入り600mほど遡った、旭区に近い場所だ。源流と呼ぶにふさわしい景色である。

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瀬谷区市民の森。「市民の森」とは、昭和46年度からスタートした、横浜市独自の緑地を保存する制度である。緑を守り育てるとともに、山林所有者の協力を得ながら市民の憩いの場として利用されている。令和2年4月1日現在、47か所(約550ha)の市民の森がある(横浜市ウェブページ)。源流付近には、整然と植林された杉が立ち並んでいる。

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三つの源流が合流している場所で、住所は瀬谷区東野77あたり。左から源流1、正面から源流2+3が、この場所で合流し右に流れていく。

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赤関おとなり橋は、瀬谷区宮沢三丁目付近にある木造風の橋だ。お寺で見かける輪廻車のような金属製の輪が親柱に2つずつ、合計8つ取り付けられている。「はまれぽ.com」の記事「お隣?音鳴り?知る人ぞ知る瀬谷区にある音が鳴る橋「赤関おとなり橋」の正体は?」によれば、これは「鳴り車」というもので、中には硬質のプラスチックが入っており、車に使われている金属の種類によって音色が違う。

写真右上の鳴り車は、こんな音がする。

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おとなり橋の向こうは河岸段丘のような丘になっていて、そこに宮沢神明社がある。「新編相模国風土記稿」には、宮澤村の鎮守と記載されている。由緒によれば、寛永年間(1624~1644)に宮沢村の開拓が行われたので、その頃に創建されたのであろう。社殿は安政4年9月の建造(神奈川県神社誌)だから、歴史的建造物だ。

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おとなり橋から300mほど下流には、貯留容量: 48,650m3の宮沢遊水地がある。ここのシンボルが、めがね橋だ。1998年建造で、横浜でも有数の美しい橋である。写真の左下に見える白い植物は、半夏生だ。

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めがね橋から300mほど西、13m登ったところに「宮沢六道の辻」がある。横浜市瀬谷区のウェブページに

6本の道が放射状に延びた場所で、坂東三十三観音札所の星の谷観音と弘明寺観音を結ぶ道の分岐点となっています。六道とは、仏教でいう「地獄道・餓鬼道・畜生道修羅道・人間道・天道」のことで、その別れ道を六道の辻といいます。地蔵菩薩が六道からの救済を行うと考えられていました。

と紹介されている。地図で見ると、放射状の道がよくわかる。

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いずみ中央駅付近の風景。高架を相鉄いずみ野線が走る。

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いずみ中央駅から少し下流に、宮澤家の防風垣がある。泉区のウェブページで、

開発前の和泉川沿いは水田が下流まで続いており、環状4号線方面からの西風も強かったはずです。屋敷の防風垣としていつ頃この「もちの木」が植えられたのか、当主の宮澤弘氏も不明と言います。樹勢から2~300年は経っているでしょう。

と紹介されている。

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開発が進む泉区も、かつては水田地帯だった。当時の面影を偲ばせる場所だ。

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中和田南小学校から赤坂橋を渡った少し先、四ッ谷交差点のそばに第六天神社という小さな神社がある。この神社には酒湧池があり、昔話が伝わっている。

昔、池の近くに孝子がいて、池の水を樽に汲み取って父に飲ませていた。ある日、里人が樽をさげてきた孝子にあった。どこから酒を買って来たのかと尋ねると孝子は、この山奥の池の水が、うまい酒であるので、汲み取って父に飲ませているという。里人は大いに喜んで、大樽に汲み取って金もうけをしてやろうとしたところ、その酒はたちまち、ただの水になってしまった(「いずみ いまむかし」泉区小史発行委員会)。

これが、酒湧池らしい。

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和泉川は、境川遊水地で境川と合流するが、遊水地の東側に「天王森泉公園」がある。ここには、横浜市認定歴史的建造物である旧清水製糸場本館の天王森泉館(てんのうもりいずみやかた)が保存されている。明治から昭和にかけて、和泉川流域には20社の製糸場があった。くわしくは、公園のウェブページをご覧いただきたい。

https://www.tennoumori.net/

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このあたりで、以前キジやヒバリに出会った。これは2015年の写真だが、今でも生息しているらしい。

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和泉川と境川が合流する、境川遊水地公園だ。境川遊水地は、俣野遊水地、下飯田遊水地、今田遊水地の3つの遊水地によって構成され、合わせて約30haの広さを有し、約90m3/sの洪水調節を行うことができる。とにかく広い。周囲を1周すると4.5kmあるのだ。

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境川との合流地点。左が境川で、右が和泉川だ。中央の水門は、ビオトープにつながっている。

(2021年7月記)

 

横浜の川を歩く17 名瀬川

名瀬川(なせがわ)は、境川水系の二級河川だ。横浜市戸塚区名瀬町の戸塚カントリークラブ内を源流とし、横浜新道の上矢部IC付近で阿久和川に合流している。合流地点から名瀬遊水池までの二級河川部分は2,210mで、そこから源流までの約1.2kmは普通河川である。

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名瀬川源流付近の風景。かなり奥まった場所だが、1976年に相模鉄道いずみ野線が開通してから宅地化が進んだ。川の先に見える森に源流があるのだが、戸塚カントリークラブの敷地なので見ることができない。

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名瀬川系遊水池。相鉄いずみ野線の開業にあわせ、緑園都市一帯はニュータウンとして整備された。宅地化により土がコンクリで覆われると、豪雨時に雨水が大量に流れ込んで川が氾濫する危険があるため、ニュータウンを開発した業者の責任で遊水池が設置されている。緑園都市には「子易川系遊水池」と「名瀬川系遊水池」があるが、管理者は横浜市ではなく、開発業者の相鉄不動産だ。二つの遊水池の貯水量を合計すると101,139m3で、25mプール約207個分になる。名瀬川の下流には、横浜市が整備した「名瀬川遊水池」もあって、名前が似ているからちょっとややこしい。

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もうひとつの源流で、こちらも戸塚カントリークラブ内から流れ出している。「名瀬町小川アメニティ」として、横浜市が整備した。

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山すそに沿って流れる川の横には遊歩道が整備され、右手にはトウモロコシ畑が見える。

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サワガニを発見した。このあたりにはホタルも生息していて、6月ごろ西蓮寺付近で見ることができるらしい。

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左が名瀬川で、右から名瀬町小川アメニティーの流れが合流している。名瀬川の左には名瀬川遊水池(2期工事分)があり、増水した水が流れ込むようになっている。河口からここまでが二級河川部分で、遊水池は横浜市の施工・管理だ。

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栄橋から、名瀬川遊水池の1期工事分をのぞむ。1期工事は昭和63年度、2期は平成17年度に完成した。合計の貯水量は29,400m3である(横浜市web 横浜市の総合治水対策)。

栄橋には水位計とカメラが設置されており、横浜市のウェブサイトから常時確認することができる。

水位観測地点詳細情報(現在)

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白神社は、新編相模国風土記稿に「白明神社」の名で、名瀬村の鎮守と記載されている。珍しい名前だが、神奈川県神社庁のウェブページによれば、「白神社という名前は、当町松窪という所に大きな白蛇が居て、永年に亘り農地を荒していたので、村人は水神が白蛇に変じて戒め給うものと悟り、そのみたまを奉斎したのが創祀だと伝えられている」そうだ。

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擁壁の水抜き穴から伸びた雑草が風にあおられ、その跡が円形の筋になっている。これを雑草ワイパーと名づけてみた。2021年5月に世間を騒がせた、ニシキヘビ脱走事件の舞台がこのあたりだ。

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モツゴがたくさん泳いでいた。

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横浜新道の上矢部IC付近で、左から流れてきた阿久和川に吸収される。ここが名瀬川の終点だ。

(2021年6月記)

 

横浜の川を歩く16 阿久和川

阿久和川(あくわがわ)は境川水系の二級河川だ。瀬谷区三ツ境付近を源流として泉区・戸塚区と3つの区をめぐり、柏尾川に至る延長5,510mの川である。主な支流として名瀬川(なせがわ)と子易川(こやすがわ)が知られているが、今回のレポートでは子易川をあわせて報告し、名瀬川については後述したい。

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相模鉄道三ツ境駅にほど近い、4本の道路が集中する場所。「瀬谷の史跡めぐりガイドブック」(瀬谷区役所地域振興課:2019年発行)によれば、かつて三ツ境駅の南側に阿久和川源流の鎌取池があり、池の全長約291m、幅は約42mだったと書かれている。埋め立てられた池の場所は特定できないようだが、私は上に掲載した写真のあたりが鎌取池跡ではないかと思う。

下の図をご覧いただきたい。これは、国土地理院の地図で、標高差に陰影をつけてある。凹んでいる部分を水色で囲い計測すると、資料に記された池の広さとほぼ合致するのだ。くねくねと並行する2本の道路が、鎌取池の境界線だったのではなかろうか。

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鎌取池(かまとりいけ)の由来については、昔話が伝えられている。池のまわりの草を刈っていた若者の夢に娘が現れ、草を刈られては困るから鎌を預からせてくれというので、鎌を渡すと娘は消えてしまった。この娘は池の主である大蛇の化身だった。というお話で、横浜市瀬谷区のウェブページにも掲載されている。

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横浜市の公共下水道台帳図「だいちゃんマップ」を見ると、三ツ境駅方面から雨水管を通って流れてきた川は、この場所で地上に顔を出す。400mほど下流でふたたび暗渠に入り、1.5km先の熊野神社を過ぎたところで、やっと川らしくなる。

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阿久和川(暗渠)から300mほど東に離れたところに、旧大岡家長屋門がある。泉区から移築された安西家母屋とともに長屋門公園として整備され、市民に親しまれている。建造当初、二階は蚕室として使用されており、付近には2社の製糸場があった。養蚕が盛んだった明治期の繁栄ぶりを偲ぶことができる(「瀬谷の史跡めぐりガイドブック」瀬谷区役所地域振興課:2019年発行)。なお、「ガイドブック」には明治17年築と書かれているが、横浜市の歴史的建造物一覧では、建築年代を明治20年(1887)としている。 

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阿久和熊野神社は、平安時代からこの地に祀られていたと伝承される、由緒ある神社だ。明治6年(1873)に建てられた本殿は見事な彫刻で飾られ、例大祭では湯立神楽が奉納される。昭和9年(1934)には神楽殿も建立され、昭和30年代まで地芝居が演じられていたそうだ(横浜市教育委員会文化財課)。

暗渠を流れていた阿久和川は、熊野神社横から地上に姿を現す。 

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瀬谷区を過ぎて泉区に入ると川辺の景色が一変し、遊歩道が整備され、公衆トイレも完備されている。区によってずいぶん違うものだ。川の左手にある森は、新橋天神の森公園で、道の先に見えるのは中丸家長屋門だ。2001年に、横浜市の歴史的建造物に指定された。中丸家は阿久和村の名主であり、明治期には戸長を務めた名家で、養蚕業によって発展した。現在もご家族がお住まいなので内部の見学はできないが、外観だけでも一見の価値がある。 

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阿久和川の上を、相模鉄道いずみ野線が走る。源流から4kmほど下ったところだ。 

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親水公園「集いのまほろば」だ。泉区のウェブページで、「中央部には「集いの橋」と名付けられた、立体的に櫓を組んだ円形の木製の橋があります。不動橋から新明神橋までの間に、5つの「まほろば」があり、川沿いには歩道があり、せせらぎの音を聞きながら川辺を散歩するのに最適です。」と紹介されている。 

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階段状に合流している右の川が子易川だ。

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子易川は、相模鉄道緑園都市駅に近い子易川遊水池を源流として、横浜緑園総合高校、岡津中学校、岡津小学校の横を流れて阿久和川に合流する、全長1.3kmほどの川だ。

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 名瀬川が合流する横浜新道矢部インター付近には、水位計が設置されている。ここから600m下流で平戸永谷川、1km先では舞岡川と合流するから、豪雨のときは増水が心配される場所なのだ。

河川カメラ情報地点詳細(現在) 

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この写真は、柏尾の大山道道標だ。

江戸時代には大山信仰が盛んで、主要な参詣道路が12あった。そのうちのひとつが「柏尾通・戸田通大山道」である。横浜市戸塚区柏尾で東海道から分かれ、岡津・長後・用田を経て相模川の戸田で渡船して大山に向かうルートだった(川島敏郎「大山詣り」)。大山道は不動坂信号手前で東海道から分岐するが、ここに不動尊(道標)が建っている。この先から岡津までは阿久和川と並行しているので、あわせて紹介したい。

祠に祀られている道標は、石造りの不動明王像で、正徳3年(1713)の建立だ。「従是大山道」の道標は寛文10年(1670)のもので、他に2基の道標と灯籠、庚申塔がある(横浜市歴史博物館ウェブページより)。

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手作りの「コロナを退治する不動明王護符」が配布されていたので、ありがたく頂戴した。

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右から流れるのが阿久和川で、左は平戸永谷川だ。二つの川が合流したところから柏尾川と名を変え、戸塚、大船、藤沢に至り境川と合流する。

正面に見えるトラス橋は、国道1号戸塚跨線橋だ。大磯町に居住していた吉田茂首相が、東京へ往復するとき戸塚駅踏切が渋滞することに業を煮やして、昭和28年(1953)に建設を決めたバイパス道路である。ワンマン宰相とあだ名された吉田茂の名を取って、ワンマン道路とも呼ばれている。

箱根駅伝2区の歴史に名を残す、東海大学エースの村澤明伸選手に「キツくて泣きそうになった」と言わしめた急な登りがここから始まる。

(2021年5月記)

 

横浜の川を歩く15 舞岡川(まいおかがわ)

舞岡川は、境川水系の河川である。柏尾川との合流地点から舞岡川遊水池(右支川合流点)までの1640mが二級河川、そこから上流へ510m(地下鉄舞岡駅付近)までは準用河川で、その先は普通河川だ。(「横浜の川」横浜市道路局河川部)

横浜市のウェブページでは舞岡公園周辺を源流域としているが、約30ヘクタールの公園なので、広すぎてどこが源流なのかわからない。そこで、河口から上流に舞岡川をさかのぼり、源流を探すことにした。

 

f:id:konjac-enma:20210516104532j:plain正面の建物群は、ブリジストン横浜工場だ。舞岡川は工場の中を流れ下り、柏尾川に合流している。

 

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柏尾川との合流地点から200mほど上流で、国道1号線を抜ける。国道1号といえば、箱根駅伝を連想する方も多いだろう。戸塚駅周辺には箱根駅伝がデザインされたマンホール蓋がたくさん設置されているから、選手たちはこの道を走ると思っている人がいるかもしれない。ところが、箱根駅伝のコースは不動坂から横浜新道方面に向かうため、この道は通らないのだ。

f:id:konjac-enma:20210516111541j:plain LocalWikiより

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現在は脇道だが、ここが旧東海道だ。 国道1号から150mほど上流になる。水位計とカメラが設置されていて、ほぼリアルタイムで河川の様子を確認することができる。

水位観測地点詳細情報(現在)

 

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柏尾川との合流地点から1300mほど上流に、神奈川中央交通舞岡営業所がある。神奈川中央交通(通称「かなちゅう」)は、神奈川県民にとって最もなじみ深いバス会社だ。ウェブサイト「Wikiwand」に、神奈川中央交通について詳しく記述されているので、その一部を紹介したい。

神奈川中央交通には「日本初」の取り組み実績がたくさんある。

・乗車時に整理券を取り、降車のとき整理券と照合して運賃を支払う「整理券方式ワンマンバス」を1962年から運行した。

・割増料金を適用した深夜バスを1970年に運行開始した。

・多区間運賃路線でのバスカードを1988年に導入した。

・通勤定期券を所持している利用者と、同伴の家族が土休日に一般路線を利用する際には1回の乗車が現金100円になるという環境定期券を、1997年に導入した。

舞岡営業所は広い敷地を有しているが、2011年のデータでは、189台の車両が登録されている。

 

 

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舞岡川遊水池は、平成25年に完成した地下貯留式の遊水池だ。貯留容量は、55,200m3である。舞岡川右支川との合流地点で、その上カーブしているから、豪雨時には水の勢いが激しい。その場所に取水口を設け、洪水を防いでいる。
河川遊水池は地上に水を貯めるオープン式が一般的だが、この遊水池を地下式にした理由は、隣にある舞岡小学校児童の安全を考慮したからかもしれない。

ゲリラ豪雨に象徴されるように、大量の雨水が短時間で川に流れ込み、河川が氾濫する事態が多数発生している近年、遊水池の役割は重要なものとなっている。

横浜市記者発表資料 令和元年台風第19号等における河川遊水地の貯留実績について

 

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舞岡公園の案内板。舞岡川は横浜市営地下鉄舞岡駅付近で二手に分かれるが、上の流れが舞岡川と記載されている。

 

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道岐橋から舞岡公園入口までの約1.8kmが舞岡町小川アメニティだ。色とりどりの草花が植えられ、メダカが泳ぎ、ヌマエビやカワニナを見ることができる。手入れが行き届いていて、川を愛する地域住民の思いが伝わる。

 

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舞岡八幡宮。長い石段の上から、参詣者を見下ろすように鎮座している狛犬のシルエットが印象的だ。この神社は、由緒によれば乾元元年(1302)に石清水八幡宮を勧請したのが始まりで、村の鎮守として崇敬され、明治6年(1873)に村社となったそうだ。忌竹をめぐらし中央の大釜に熱湯をわかし巫祝が呪言して笹葉に浸した湯を神前と参詣人にまく、湯花神楽神事を4月15日に行っている。

境内は深閑とした雰囲気が漂い、古社の風格を感じさせる。

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狛犬にも、ひと言ふれておきたい。昭和初期に戸塚の石工が制作したものだが、荒削りでありながら、姿がいい 。大正・昭和の狛犬は類型的で面白くないのだけれど、この作品は頭の形や表情が個性的で、狛犬として出色のできばえだと思う。

 

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舞岡町小川アメニティをさらに進むと、しだいに自然の風景になってきた。この場所だけキショウブが群生している。そういえば近年、キショウブを見かけることが多くなった。ウィキペディアによると、

観賞用に栽培されているハナショウブには黄色系の花がないため、その貴重性から重宝されたが、湖沼や河川などへの拡散が問題となっている。環境省は「要注意外来生物」の一種として「栽培にあたっては、逸出を起こさない」「既に野生化している湖沼等があり、在来種との競合・駆逐等のおそれがある場所については、積極的な防除または分布拡大の抑制策の検討が望まれる」として警戒を呼びかけている。

だそうで、見た目が美しいからといって許容できる状況ではないらしい。

 

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川底に丸い穴の目立つ場所があった。この穴を甌穴(おうけつ)といい、ポットホール、かめ穴とも呼称する。水流によってできた浅いくぼみに石が入り、流水や波の渦といっしょになってくぼみの中で回転し、円形の穴を形成する。それが甌穴だ。

 

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舞岡公園に入った。休耕田が野原のようになっている。川幅が狭くなり、水量もずいぶん減った。源流まであと少しだ。

 

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さくらなみ池の手前まで来た。このあたりを源流と見なしていいと思う。池から放流された水と、丘の斜面から流れ込む水が細い流れを形成している。

 

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周囲が150mほどのさくらなみ池は、農業用水として使われているのだろう。池の排水口から水路が築かれ、そのうちの一本が舞岡川とつながっている。

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さくらなみ池の水が、農業用水として水路に流れ出している。

 

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さくらなみ池の向かいにある宮田池はウシガエルのパラダイスだ。たくさんのおたまじゃくしが水草にもたれて身体を休め、モーモーという大人ガエルの鳴き声が、あちこちから聞こえていた。

(2021年5月記)