横浜の川を歩く10 帷子川②

帷子川(かたびらがわ)は横浜市旭区を源流とし、横浜駅東口までの約17kmを流れる二級河川だ(「横浜の川」横浜市道路局河川部)。鶴見川大岡川と並ぶ、横浜を代表する河川である。

今回は、帷子川の中流域である鶴ヶ峰から星川までを、支流の中堀川・くぬぎ台川・新井川・二俣川菅田川もあわせてレポートする。また、帷子川分水路についてもふれてみたい。

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上川井付近を源流とする帷子川は、 鶴ヶ峰駅入口交差点の手前で二俣川と合流し、「帷子川捷水路トンネル」に入る。100m余のトンネルを抜けて再び姿を現した。蔦のカーテンでよく見えないが、直径10mほどのトンネルだ。

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鶴ヶ峰地区を中心とする帷子川周辺は、畠山重忠の伝説が多く残っている。それは、新編武蔵国風土記稿に「旧跡古戦場 鶴ヶ峰ノ辺ヲイヘリ元久二年畠山次郎重忠鎌倉ヨリ討手北條相模守ト合戦シテ討死セシ所ナリ」と書かれているとおり、ここが畠山重忠終焉の地だったからだ。フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』によると、

「畠山 重忠(はたけやま しげただ)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。鎌倉幕府の有力御家人源頼朝の挙兵に際して当初は敵対するが、のちに臣従して治承・寿永の乱で活躍、知勇兼備の武将として常に先陣を務め、幕府創業の功臣として重きをなした。しかし、頼朝の没後に実権を握った初代執権・北条時政の謀略によって謀反の疑いをかけられて子とともに討たれた。」と解説されている。

また、「【特別展】畠山重忠 -横浜・二俣川に散った武蔵武士-」(横浜市歴史博物館)には、

畠山重忠は今ではほとんど忘れられた存在だが、「吾妻鏡」で清廉潔白、誠実、豪傑という評価がなされ、鎌倉時代の「畠山物語」をはじめ、お伽草紙、歌舞伎、浄瑠璃、浮世絵などで取り上げられ、重忠伝説は各地に伝えられた。1都1道1府26県に、200カ所を超えるゆかりの地があるとされている。
近代になると、明治政府の方針で仁義忠孝の教えを説くために畠山重忠の物語が「幼学綱要」に取り上げられ、児童・国民に広められた。

と述べられている。

「水辺からのレポート 横浜帷子川をゆく」によると、この地域では、江戸末期まで畠山重忠の事績について関心が薄かったらしい。しかし「嘉永5年(1852)、今宿村清来寺の住職宥欣は重忠の武勇を称えて「吾妻鏡」の内より重忠に関係のある箇所を仮名書きにし、あわせて近在の人々に呼びかけ、この地に果てた重忠追悼の和歌70余首を「夏野の露」という巻物にまとめている。この後、重忠は多くの人々によって手厚く祭られるようになった。」そうだ。

昭和2年(1927)刊の栗田勇著「畠山重忠」には、現在知られている史跡などがすべて載っているから、この頃には畠山重忠ゆかりの地として有名だったのだろう。いくつかを紹介する。

首洗い井戸と書かれた杭が、旭区役所の裏手にある。旭区観光協会の説明板によると、「重忠公の首を洗い清めたといわれる井戸があった」そうだ。

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ほぼ同じ場所にあるのが首塚。重忠公の首が祭られたといわれている。

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駕籠塚。帷子川から少し離れた丘陵地、鶴ヶ峰配水池の裏にある。碑文によると、重忠の身を案じた内室が秩父から駆けつけたところ、この地で悲報に接して悲嘆慟哭し、駕籠に乗ったまま死去した。その霊を弔うため、塚を築いたそうだ。

畠山重忠関係の史跡・伝説は、他に六ツ塚・霊堂(薬王寺境内)、すずり石水、隠れ穴、矢畑・越し巻き、さかさ矢竹、万騎が原、越し場、鐘楼塚、馬頭観音がある。(「旭区郷土史」昭和55年)

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捷水路トンネルから下流方面を望む。右下がりの橋は、鶴ヶ峰バスターミナルに通ずるバス専用道路。

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かつての帷子川は、氾濫をくり返す暴れ川だった。そこで横浜市は洪水対策として、帷子川の河道をまっすぐに付け替えるショートカット工事を昭和45年から56年にかけて行った。それにより、水の流れなくなった河道がいくつか生じた。(「かながわの川(上) 神奈川県高校地理部会編」1980年 神奈川新聞社

この旧河道を利用して、「帷子川親水緑道」「鎧の渡し緑道」「田原橋公園」「逆田橋公園」などの公園が整備されている。冒頭に掲げたgoogle地図で確認していただきたい。整備前の帷子川が激しく蛇行をくり返していた様が見て取れるだろう。

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鶴ヶ峰の雑踏を抜けて「帷子川親水緑道」に足を踏み入れると空気感が変わり、清々しい気分になる。別世界だ。

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目の前をアオサギが通り過ぎていく。

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吊り橋が架かっていた。

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緑道を抜けた先の住宅街だが、ここもかつての河道だ。馬蹄形にカーブしている。

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帷子川に戻ると、コサギが羽を休めていた。集団で5羽いるのは珍しい。

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帷子川分水路が見えてきた。国道16号線下白根橋からトンネルで横浜駅西口付近の派新田間川(はあらたまがわ)に接続し、帷子川の水を横浜港へ放流する分水路で、治水対策のために整備された。トンネル区間の長さは5,320mになる。詳しくは、神奈川県のホームページをご覧いただきたい。

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分水路から400mほど下流の橋には、かつて暴れ川だった頃の名残だろうか、浮き輪が備え付けられていた。川の先に見えるのは、相模鉄道の高架だ。

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鷲山橋から環状2号線を撮影。陣ヶ下渓谷からの流れが高架の下で合流しているはずだ。

鶴ヶ峰から星川あたりまで、昭和20年代後半から40年代にかけて「横浜スカーフ」で知られる捺染(なっせん)業が盛んだった。生地に染め付けた染料などを洗い落とすため、帷子川が利用されたのだ。昭和20年代までは、染め付けた生地を川に晒す風景が見られたという。その昔、相鉄線沿線にある小学校の社会科見学先は、捺染工場が定番だった。しかし、当時を物語る痕跡は、もはやどこにもない。「横浜捺染―120年の歩み」(日本輸出スカーフ捺染工業組合 1995年)で、繁栄の様子を偲ぶのみである。

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星川駅を過ぎたところにある川辺公園。奥に見えるのが帷子小学校で、右岸には保土ケ谷公会堂・図書館がある。保土ケ谷区民は、帷子川といえばこのあたりを思い浮かべるだろう。

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ここからは、支流を紹介したい。まずは、中堀川だ。「神奈川の川(上)」によれば、白根大池の水を帷子川に流すために築かれた川で、宝永4年(1707)に下白根村の名主市左衛門が中流域約540mをまっすぐに改修したそうだ。
だから、源流は上白根大池公園と考えてよいだろう。

全長約3,000mのうち、白根神社の手前から帷子川と合流するまでの850mが二級河川に指定されている。

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紅葉が美しい上白根大池公園の東北端に源流がある。

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中原街道の下を抜け白根通りに沿う道は「中堀川プロムナード」と名付けられ、お年寄りの散歩道になっているようだ。

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2kmほど下流に、有名な「白根のお不動さん」がある。神仏分離令により明治3年に白根神社となったが、本尊は一寸七分の不動明王座像だ。八幡太郎源義家前九年の役で戦うとき、この座像を兜の中に納めて勝利した。その礼として、鎌倉権五郎景正に命じ堂宇を建立し祀ったのが、白根神社の前身である成願寺の起源と伝えられる。(「新編武蔵国風土記稿」より)

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境内には大滝、小滝と呼ばれる二つの滝がある。

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国道16号線の白根不動入口バス停あたりで帷子川と合流する。

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次に紹介するのはくぬぎ台川だ。全長1,190mで、準用河川に指定されている。相鉄線鶴ヶ峰駅から環状2号線に向かってまっすぐに伸びた道路が、鶴ヶ峯小学校の先で急な下り坂になっているが、下りきったところが、準用河川くぬぎ台川の始点だ。ここから先は暗渠になっている。実際は、この先も市沢や左近山方面に枝分かれしながら川は続いていて、神田(じんでん)公園も源流の一つなのだろうが、そこまで追っていくときりがないので、ひとまずこの場所を源流としたい。

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源流付近の風景。川は、新幹線の高架に沿って流れていく。ガードをくぐった左側には、鶴ヶ峰駅に続く急な上り坂がある。

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くぬぎ台川・帷子川の合流地点。西谷駅に近い、東海道新幹線のガード下あたりだ。

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新井川は全長が2,000m以上の川だが、そのうちの800mが準用河川となっている。「稲荷通り」バス停あたりから二股に分岐し、一方は新井小学校付近が源流であるが、今回はもう一方の源流を追ってみた。

横浜市旭区中白根四丁目4の外れ、「特別養護老人ホームさわやか苑」の手前が源流になる。全長2,400mほどだ。

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帷子川と合流する300mほど手前で、帷子川分水路の上を流れている。川の上を流れる川だ。不思議な光景である。

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新井川は、国道16号線の川島町交差点付近で帷子川に合流する。

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二俣川は旭区の中心地である相鉄線二俣川駅の下を流れる全長5,000mほどの普通河川だ。このあたりは起伏に富んだ地形であるため、毛細血管のようにたくさんの小川が二俣川に流れ込んでおり、源流を特定することができない。今回は、そのなかでも比較的距離が長い流れを源流と見立てて取材した。

ここは横浜市旭区善部町89あたり。前に見えるのは東海道新幹線のガードで、その南側になる。ガードの向こう側にも長さ1000mほどの小川があるが、横浜市の「だいちゃんマップ」によると、この流れは道路地下の雨水管につながっているように見えるので除外した。

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地上を流れてきた二俣川は、相鉄線二俣川駅の手前で暗渠となり、駅の下を400mほど進んで再び地上に姿を現す。

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相鉄線は、2019年11月にJR線と直通運転を開始した。これに先立ち、起点となる二俣川駅はその姿を一新した。以前の二俣川駅しか知らない人は、この写真を撮影している場所がどこか、見当もつかないであろう。渋谷駅と45分でつながる二俣川駅は、都心への通勤圏といっても過言ではないハブステーションに変貌したのだ。

しかし、駅を少し離れると、景色は40年前のままだ。旭区はそういう町です。

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二俣川は、鶴ヶ峰の旭区役所付近で帷子川と合流する。

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菅田川は、道路が渋滞することで有名な国道16号線梅の木交差点から菅田方面に1kmほど遡った、福生寺付近を源流とする川だ。帷子川までの全長でも1,600mほどの普通河川である。この先にも川らしきものはあるが、暗渠が多くて菅田川とのつながりがはっきししないので、横浜市保土ケ谷区上菅田町714あたりを源流とした。

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菅田川は、暗渠となって帷子川に合流している。

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「帷子川② 鶴ヶ峰から星川まで」はこれにておしまい。長文にお付き合いいただき感謝します。

(2020年11月記)

横浜の川を歩く9 消えた川

横浜市の中心地である横浜駅から南太田駅石川町駅を頂点とするデルタ地帯は、かつて川が縦横に流れる水の町だった。そんな横浜の風景を変える契機となったのが、戦後の急速な都市化だ。陸上の交通整備が急務となり、昭和40年代から吉田川など4本の主要な川が埋め立てられ、鉄道や道路が建設された。その結果、江戸時代に吉田新田と呼ばれたこの地域では、明治以降主な川だけでも7つの河川が消滅した。

①派大岡川、②吉田川、③日ノ出川、④桜川、⑤富士見川、⑥新吉田川、⑦新富士見川である。上の地図に記した赤いラインをご覧いただきたい。他に小松川や名の知られていない水路もあったが、やはり埋め立てられた。

川の位置は、明治24年刊の「横浜真景一覧図絵」をもとにしてグーグルマップに書き込んだが、明治30年に開鑿された新富士見川など、この図絵に記載されていない川などについては、大正2年「最新横浜市全図」をもとにしている。どちらも「横浜市立図書館デジタルアーカイブ 都市横浜の記憶」で公開されている。

今回は、消えた7つの川に焦点を当て、現在の様子と、川の痕跡を探ってみたい。

このコラムは「川の町・横浜」(横浜開港資料館 2007年)のおかげで作成することができた。横浜の発展を見守り、消えていった川や橋について詳しく知りたい方は、この冊子が役に立つと思う。横浜市図書館で閲覧が可能だ。

 

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大岡川

この川が派大岡川と呼ばれるようになったのはいつか、よくわからない。明治以降の地図には一貫して「大岡川」(「大岡川筋」とも)と記載されており、昭和39年の地図も同様だ。本来の大岡川と区別するための行政上の呼称かもしれない。

江戸初期の吉田新田開発にともない入海が埋め立てられたとき、防潮堤によって海と隔てられた巨大な溜め池ができた。これが派大岡川の初期形態である。当初は、流れ込んだ海水を抜く役割があったのかもしれない。その後物資の運搬や増水対策のために利用された。

戦後の都市化に伴う人口の増加・交通量の増大に対応するため、昭和34年(1959)に現JR根岸線の建設が始まった。線路は派大岡川の上を並行するので川の一部埋め立てが開始され、川幅が狭くなった。引き続き高速道路や市営地下鉄の建設が決定し、工事が始まったことにより、昭和52年(1977)にすべて埋め立てられ、派大岡川は姿を消した。

①西の橋

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中村川に架かる橋。JR石川町駅から200mで、元町商店街や中華街にも近いのに裏通りの印象がぬぐえない。川の上を首都高速道路が通り、空が見えないからだろう。中村川は、この橋の下流から堀川と名前を変える。派大岡川もここが起点であり、川の町横浜にとって重要な橋だ。

今架かっているのは関東大震災後の大正15年(1926)に建造されたものだが、明治26年(1893)建造の西の橋が、中村川の南区役所付近に移設され、人道橋「浦舟水道橋」として活躍中である。

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西の橋の中村川寄りを起点とする派大岡川は、現在の首都高狩場線との分岐から横羽線と軌を一にして関内駅方面に流れていた。

 

②湊橋

橋の場所から関内方面に目を向けると、右手に横浜スタジアム、左手には旧横浜市役所が見える。首都高速道路横羽線は、横浜市立港中学校のあたりから地下に入り、派大岡川の流路を走り抜けている。青いネットの下が横羽線だ。

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高架はJR根岸線、左端の茶色い建物はJR関内駅だ。

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 ③吉田橋

かつて横浜で最も重要な橋だった。横浜は1859年(安政6年)に開港したが、外国人居留地を派大岡川の海側に設定し、吉田橋を築いてここを関門とした。この地域を「関内」と呼ぶのは、このことに由来している。

明治2年(1869)には日本最初のトラス式鉄橋として生まれ変わり、以来長く「鉄の橋」として親しまれたという(「川の町・横浜」)。現在の橋は5代目だが、トラス式鉄橋のデザインが使われている。

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④派大岡川終点

下を流れるのは大岡川だ。ここが派大岡川の終点であり、向こう岸は桜川の起点でもある。

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吉田川・新吉田川

横浜市営地下鉄関内駅阪東橋駅間は、大通公園の地下を走っている。ここはかつて吉田川と新吉田川が流れていた。明治6年(1873)に吉田新田の南一つ目沼約7万坪の埋め立てが完成したが、この事業と並行して日ノ出川、吉田川、富士見川が開鑿された。明治7年に作成された「第一大区横浜全図」には、これらの川が記載されている(「川の町・横浜」)。

「川の町・横浜」など公的な文献では、逢来橋から千秋橋まで(地図の②から①)を吉田川、そこから上流の中村川③までを新吉田川としている。新吉田川は明治29年(1896)に完成しているが、明治期に発行された地図を見ると、明治7年以降すでに上流まで開通しているように描かれている。この違いがよくわからないので、このコラムでは吉田川と新吉田川をひとくくりにして記述することにした。

川の終焉はどちらも一緒で、昭和47年(1972)に埋め立てられている。

 

①吉田川・新吉田川に架かっていた橋のレリーフ

 伊勢佐木長者町駅構内の壁面に「橋の詩」と名付けられたレリーフがあり、吉田川・新吉田川に架かっていた橋の銘板が飾られている。 

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②派大岡川との合流点

大岡川が流れていた場所から吉田川跡を望む。大通公園石の広場だが、石造りのステージは撤去され、現在はロダンの彫刻が飾られている。

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同じく大通公園水の広場

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③新吉田川と中村川の合流点

左が池下橋で、右奥かすかに見えるのが久良岐橋だ。手前を流れる中村川から分岐し、両橋の間をまっすぐ前方に流れていた。

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首都高速狩場線から阪東橋出口に降りる道路の下を流れていた。今は阪東橋公園になっている。

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日ノ出川と富士見川

吉田川・新吉田川と同時期の明治6年(1873)頃開鑿された。日ノ出川は中村川と吉田川をつなぐ全長約600m、富士見川は同じく中村川から吉田川を貫き、現在の中郵便局を通り若葉町あたりまで伸びる760mほどの運河だ。

「なか区歴史の散歩道」(横浜開港資料館)によれば、「日ノ出川と富士見川は排水路としての役割に特化しており、付近の住民たちは汚臭と交通不便とに悩まされていたという」。そして「富士見川は明治29年(1896)に埋め立てられ、日ノ出川は材木業者などの反対で遅れたが、昭和29年(1954)に埋め立てられた」。

 

⑤翁橋

日ノ出川と中村川の合流地点は、この橋の左手になる。現在の寿町だ。

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⑥日ノ出川公園

公園の向こうに紅葉した樹木が見えるが、あそこが日ノ出川と吉田川の合流地点だ。川の跡地5000㎡ほどが、公園としてその名を残している。

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⑦富士見川の始点

富士見川は埋め立てられたのが明治の中頃で、そのうえ関東大震災、戦災に遭って再開発されたため川の痕跡は皆無だ。中村川の向こうに見える茶色と白のビルが建っているところが河道になる。

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⑧長島橋

画面を横切っている広い道路がかつての吉田川で、富士見川は吉田川と交差してこの先まで伸びていた。写真の左手前、吉田川と富士見川に囲まれた場所に真金町遊郭があった。

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新富士見川

新富士見川は、明治30年(1897)、不動産・土木業の名士である伏島近蔵によって開鑿された。彼は新吉田川も工事している。新富士見川は、新吉田川と大岡川を結ぶ全長300m弱の短い川で、埋め立てが昭和48年(1973)と比較的最近だったこともあり、川の跡が再開発されずきれいに残っている。

⑨新吉田川との分岐点

新吉田川の流れていた場所から撮影。ビルの間に空間のあるところが新富士見川の跡だ。現在は青空駐車場と富士見川公園になっている。

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大岡川との合流点

大岡川の対岸から新富士見川跡を撮影。

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桜川

新橋駅-横浜駅(現在の桜木町駅)間の鉄道敷設にあたり、1870年に野毛浦の先を、1本の水路を残して鉄道用地として埋め立てられた。この水路には紅葉橋、錦橋、瓦斯橋、雪見橋、花咲橋が架けられ、1871年に桜木川(のちに桜川(さくらがわ)に名称変更)と命名された。(フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』)

昭和29年(1954)に埋め立てられたが、雪見橋、花咲橋などのバス停に川の名残りがあり、当時を偲ぶよすがとなっている。

当初は、大岡川から石崎川までほぼ一直線に流れていたが、大正になって流路が③から④のルートに変更された。「横浜市立図書館デジタルアーカイブ 都市横浜の記憶」で公開されている第四有隣堂の「大正調査番地入横浜市全図」を見ると、大正5年11月訂正第4版では直線のままだが、大正6年4月訂正第5版と大正8年1月の訂正第7版では直線路と迂回路が併記されている。そして、大正8年10月の訂正第8版では迂回路のみが描かれているから、大正5年頃から桜川を石崎川の上流方面に迂回させる工事が始まり、大正8年10月には直線路の埋め立てまで完了したことがわかる。なぜこの工事が行われたのかを推測してみたい。

初代横浜駅が現在の桜木町駅の場所にあったことはよく知られているが、大正4年には2代目横浜駅が石崎川のほとり、現在「ロワール横濱レムナンツ」マンションが建っているあたりに完成・移転した。敷地内に、駅の基礎遺構が残っている。桜川と石崎川が合流している場所に近いので、2代目横浜駅の建設が直線路を埋め立てるきっかけになったのかもしれない。また、「ちんちん電車 ハマっ子の足70年」(横浜市交通局)によれば、大正5年から8年にかけて高島町停車場をハブステーションとして整備しているようだ。高島町界隈の重要性が増し、直線路の埋め立てにつながったのだろう。その後、関内・桜木町東海道国道1号)を一直線につなぐ新横浜通りが建設されることになる。

①桜川の始点

正面にそびえる樹木から左に架かる桜川橋のあたりが川の始まりだ。f:id:konjac-enma:20201121104411j:plain

もし今でも桜川が流れているとしたら、川からこのような景色を見ることができただろう。緑橋があった場所から、みなとみらいを望む。

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②埋め立て後の昭和57年(1982)に架けられた紅葉橋

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③大正5年(1916)頃までは、正面にある髙島交番の左を流れ、石崎川に合流していた。

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その後、この道路の右側に沿って迂回する流路が築かれていく。

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④迂回路は、横浜市環境創造局桜木ポンプ場のある場所から石崎川に流れ込んでいた。石崎橋が架かっている護岸と右側の護岸の構造が違うので、このあたりが合流地点であろう。

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(2020年11月記)

横浜の川を歩く8 平戸永谷川

 

平戸永谷川は、境川水系の二級河川だ。「横浜の川を歩く2 馬洗川」で紹介したとおり上流は馬洗川で、市営地下鉄上永谷駅付近の馬洗橋に入ったところから、平戸永谷川に名前が変わる。二級河川なので通常なら神奈川県の管轄だが、特別に横浜市が管理している。平戸永谷川には、支流として芹谷川、川上川、平戸川が流れ込んでいるので、これらの川も合わせて紹介する。

 

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馬洗橋に架かる人道橋の上から撮影した、下流方面の風景だ。平戸永谷川は写真の左下から馬洗橋に入り、直角に曲がって環状2号線の中央を流れる。中央分離帯が緑地になっているが、そのすぐ先から地上に現れている。

 

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馬洗橋から400mほど下った所に、永谷天満宮がある。祭神はもちろん菅原道真だ。明治六年には村社となった。新編相模国風土記稿には大略以下のように書かれている。

天神社の縁起によれば、大宰府に着任した道真公は延喜二年、自分の姿を模刻した一寸八分の彫像を作って息子の淳茂に与えた。その後彫像は、菅原文時、藤原道長、上杉金吾らに伝わり、明応二年(1493)二月のある夜、この地の領主で永谷郷に住んでいたといわれる藤原乗国が霊夢を見たことをきっかけに、社殿を造営し、この彫像をご神体として安置したそうだ。

 

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永谷天満宮横の歩道橋から上流方面を望む。手前に橋、その先には人道橋が見えるが、両側を道路に塞がれ、利用することができない。

 

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平戸永谷川に架かっている、通行禁止の上永谷人道橋。昭和63年に完成している。道路の向こうにある永野小学校(右端の建物)への通学路だったのだろう。環状2号線が全面開通してから自動車の走行量が増加したため、児童への安全を配慮して歩道橋を建設し、歩道を閉鎖したらしい。

 

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両側に遊歩道が整備され、散策する人が多い。川岸にはたくさんのカンヒザクラ河津桜かもしれない)が植えられ、ひと足早い春の訪れを知らせてくれる。写真が手元になくて紹介できないのが残念。

 

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馬洗橋から1500m、小高い丘の上に神明社がある。公式サイトの由緒には「永禄元年正月(皇紀二二一八・西暦一五五八)住民が合議し、 天照皇大御神を守護神と崇め、村の中心に当たる当地にお祀りしたもので、 新編相模風土記には、「神明宮、永谷村の鎮守とす。祭礼十一月十六日村持」とある。 村持とは村民の代表が経営することを示している」と書かれている。

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神明社から永谷川を見下ろす。細い参道だが、祭礼のときは橋の両側に食べ物の屋台が建ち並び、賑わいを見せている。

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カルガモをよく見かける川だ。

 

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芹谷川と合流する。右が永谷川だ。橋の上は高架になっていて、環状2号線が走っている。左手150m先には国道1号線の平戸交立体差点がある。

 

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合流地点の左には、広大な平戸永谷川遊水池がある。奥に見える白いフェンスが永谷川の向こう岸で、増水時には手前の越流堤を越えて遊水池に水が流れ込むようになっている。遠くに見える建物は、東戸塚の高層マンション群だ。

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カワセミやカワウが現れることも。

 

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国道1号線赤関橋交差点。永谷川は道路の下を抜け、画面の奥へ流れていく。左の道は旧東海道で、新編相模国風土記稿によれば、江戸時代にも赤関橋という土橋が架かっていた。また、永谷川は、このあたりでは赤関川と呼ばれていたそうだ。

 

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川上川と合流する。全長4920mのうち、3500mまで下ってきたところだ。

 

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JRと並行して流れる。走っている電車は横須賀線だ。川の右側が1kmほどの遊歩道になっており、天気がいい日には、散歩やジョギングをする人でにぎわっている。

 

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右から流れていくのが阿久和川。平戸永谷川は、ここから柏尾川と名前を変え、7km先で境川に合流する。

 

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平戸川の源流。住宅地の真ん中なので、源流の趣は皆無だ。左に下ると旧東海道で、200m先に品濃一里塚がある。

 

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平戸川は住宅地の裏手をひっそりと流れていく。

 

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国道1号線と並行して流れる。全長3km弱の平戸川で、一番目立つ場所だ。

 

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永谷川と合流する。平戸永谷川遊水池のところだ。

 

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芹谷川の源流は、谷底のような場所にある。坂を下りきった右手だ。

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近隣の雨水管から流れ込む排水が源流となる。

 

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暗渠になっている場所が多い。ここは、川の痕跡がそのまま残っている。

 

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芹谷川の永戸人道橋には水位計と監視カメラが取り付けられ、横浜市がデータを常時発信している。

横浜市防災情報

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水位計とカメラが設置されている理由は、川がくの字にカーブしており、豪雨時には氾濫する危険がある場所だから。護岸がかさ上げされ、氾濫対策も完了した。あと300mで永谷川と合流する。

 

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川上川は二つの流れが合流している。こちらを川上川右支流と仮称する。源流は東戸塚から二俣川に抜ける山越えの道、戸塚カントリーの手前にある。源流は斜め左の先に伸びているが、私有地で立ち入り禁止なので入ることができなかった。いずれにしても、このあたりが源流である。

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霊園の看板から左の細道に入り、少し進んだあたりが源流だ。

 

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川上川左支流の源流。こちらもまだ先がありそうだが、これ以上進むことができない。湘南医療大学の裏手、十愛病院の横だ。

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正面の十愛病院を左から回り込むようにして川は伸びているが、湘南医療大学の拡張工事のため見ることができない。

 

 

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都会と思われがちな東戸塚だが、駅のすぐそばには牧場があり、30年程前は牛糞の匂いが漂っていた。川上川左支流は、牧場の裏手から暗渠になり、東戸塚駅東口バスターミナル前の道路の地下を流れている。

 

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JR東戸塚駅東口。国土地理院が提供している1960年代の空中写真で東戸塚付近を見ると、川上川左支流がバスターミナルの先、西武デパート(正面肌色の建物)の前を横切って流れていたことがわかる。

maps.gsi.go.jp

 

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林立するビルの中に、こんもりとした白旗山公園がある。ここに鎮座する品濃白旗神社は、源義経を祭る神社だ。由緒によると、「白旗」の名がつく神社は全国で80あまりを数えるが、義経を祭る神社は8社しかないそうだ。創建は康元元年(1256)とのこと。

新編相模国風土記稿には「白旗社。村ノ鎮守トス。頼朝ヲ祀ルトイフ」と書かれており由緒とは違う。祭神が義経である文献の裏付けがあるのだろうか。

平成19年(2007)、不審火により全焼したことは当時ニュースになった。氏子たちの尽力により5年後に再建された。

 

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東戸塚の繁華街を外れたところで、川上川は再び姿を現す。聖ローザクリニック横のバス通り沿いだ。ここでは右支流と左支流は合体して一本の川になっている。過去の空中写真で確認すると、流出口のすぐ手前、横断歩道のあたりから右支流が合流しているようだ。ここから1400m下って平戸永谷川に合流する。

(2020年11月記)

横浜の川を歩く7 日野川

日野川大岡川水系に属し、横浜市港南区日野南と日野中央の2ヶ所を源流とする河川である。普通河川の日野川支流として始まり、途中から準用河川二級河川とランクアップしながら上大岡付近で大岡川に合流している。

 

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横浜市港南区日野中央3-20が、日野川右支流の源流だ。すぐそばに西松屋があるから、わかりやすい。横浜市の「大ちゃんマップ」を見ると、暗渠から先は雨水管となり、まっすぐ横浜横須賀道路の下あたりまで伸びている。

 

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川沿いの道は裏通りだが旧街道なのだろう、交通量が多い。川の左部分を歩道にして、歩行者の安全を確保している。

 

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源流から1200m下ると徳恩寺がある。川に架かる石橋と長屋門が古刹のたたずまいを見せている。

 

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鎌倉街道に面した小高い森に鎮座しているのは春日神社だ。この社叢林は、横浜市指定天然記念物となっている。

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春日神社は日野四村(吉原村、金井村、宮下村、宮ヶ谷村)の総鎮守。社殿は嘉永七年(1854)建立で、横浜市から有形文化財の指定を受けている。

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境内には名木古木指定の立派な「夫婦木」がある。

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春日神社参道に架かる「宮ノ前橋」の下を流れる。

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日野川左支流の源流。鎌倉街道藤ケ沢信号付近だ。

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上流は暗渠になる。左の高台に沿って南進し、住宅街の雨水管や調整池の排水と合流しているようだ。

 

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川から一区画先は鎌倉街道で、景色は一変する。

 

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下流の清水橋で流れが途絶えた日野川は、直角に200mほど離れたところから再び姿を現す。「日野川支流」の掲示板があるので、暗渠でつながっているのだろう。

 

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横浜横須賀道路の日野インターチェンジが近づいてきた。

 

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日野川の2本の支流が合流する地点は、準用河川だ。

 

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手前から合流する右支流と、正面を左から右に流れていく左支流。

 

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合流した川が、蛇行しながら流れてくる。先に見えるのは横浜横須賀道路の高架だ。

 

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下流では護岸の整備工事を行っている。

 

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環状2号線にほど近い、大岡川分水路。左が大岡川で、右が分水路だ。関東地方整備局の資料に「大岡川上流域では、昭和30年代を中心に大規模開発が行われ、流出量の増大で、しばしば溢水氾濫を起こしました」「このため神奈川県と横浜市では、協力して大岡川分水路を建設しました。横浜市港南区日野から根岸湾までのトンネル及び開水路(総延長約3.64km)は昭和56年に完成し、台風等による被害を防いでおります」と記載されている。

大岡川分水路に関する詳細は、以下をご覧ください。

www.pref.kanagawa.jp

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分水路のトンネル入口。日野川トンネルの内径は8.9mだ。トンネルの先に環状2号線が走っている。

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分水路の先は川幅が狭くなっている。

 

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川から50m程先の表通りには、港南中央駅がある。区役所、警察署が立ち並ぶ。右は港南中学校だ。

 

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日野川大岡川(笹下川)の合流地点。右が日野川だ。この先は上大岡で、港南区の中心地である。川幅が広がり周辺が整備されて、住民と川の一体感が高まっている。

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大岡川と合流したとたんに風景は一変する。私たちがイメージする大岡川は、ここから始まるといっていいだろう。

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上大岡は両側を山にはさまれた谷地にある。繁華街に寄り添うようにして大岡川は流れていく。

(2020年11月記)

横浜の川を歩く6 黒須田川

黒須田川は川崎市麻生区を源流とし、横浜市青葉区を通って鶴見川に合流する準用河川である。横浜市道路局河川部が発行する冊子「横浜の川」では、市長管理部分の延長を2,820mとしている。これは、川崎市との市境から横浜市に入るすすき野3丁目を起点とした距離で、源流までの総延長は4,700mほどになる。

 

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 王禅寺日吉谷調整池。ここが源流のひとつと言ってよいだろう。案内板にも、黒須田川に流れ込むと書かれている。坂の下に川の始点がある。

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「日吉」交差点。ベージュ色の建物の向こうに調整池があり、右下の小薮から水が流れ出している。

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植物に隠れてわかりにくいが、ここが川の始まりだ。

 

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紅葉が始まった木々の向こうを流れている。源流の調整池から300m。

 

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家の左手は山だ。WEBで公開されている「地理院地図」によると、標高が83m程度ある。黒須田川は、その際を流れ下る。川のところが54mだから、標高差は約30mになる。

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山王社(日枝神社)の社殿前から下の道路を望む。階段で100段以上の高さだ。川は、道の向こう側を流れている。案内板によれば、山王社の祭神は大山咋神(おおやまくいのかみ)で、王禅寺村の鎮守五社のひとつである。

 

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源流から1500mほど下ると右手が開けた平地になり、畑が作られている。市民菜園だろうか。ここは独特な地形で、ワインボトルの底のように、中央が盛り上がっている。それが右手の小山で、東京都市大学原子力研究所がある。この山を中心にして、半円を描くように高台が周回し、その縁に沿って黒須田川が流れている。左下に水面が見える。平地は川崎市、高台は横浜市で、川が市境だ。

 

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道路の下をくぐって流出する。ここからが、横浜市長管理の準用河川なのだろう。

 

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風景が一変し、住宅地を貫いて直線的に流れる。国土地理院が提供する航空写真を見ると、1960年代の黒須田川は、細かく蛇行している。それが1974年以降の写真では、現在とほぼ同じ流れになっていることがわかる。おそらく1973年の土地区画整理事業のとき、黒須田川も整備されたのだろう。その後、都市再生整備計画に基づき2006年から2010年にかけて黒須田川周辺は再整備され、上・中流の遊歩道が完成した。今では下流域にも遊歩道が設置され、準用河川部分の約3kmを川に沿って散策することができる(1カ所を除く)。

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アーチ橋が風景に彩りを添えている。子金橋(こがねばし)だ。河口から500mの地点。

 

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支流が流れ込む。すぐ先でコンクリートに覆われた暗渠になっている。

 

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 エサを探して泳ぐマガモ。黒須田川には魚が少ないが、水辺の鳥は種類が多い。カルガモはもちろんのこと、この日はマガモの他にもキセキレイカワセミコサギを見た。

 

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河口付近には平地が広がり、農業地区になっている。「浜なし」が有名で、完熟した梨を直接消費者に届ける販売手段をとっているため、スーパーなどの店頭に並ぶことがほとんどない高級ブランドだ。取材した10月下旬は梨の時期ではなくて、柿が鈴なりだった。

 

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黒須田川河口を鶴見川サイクリングコースから撮影。振り向くと、そこが鶴見川だ。

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黒須田川の終点。鶴見川に合流する。

 

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黒須田川は準用河川で、横浜市長が管理者だ。

準用河川とは、一級河川及び二級河川以外の「法定外河川」のうち、市町村長が指定し管理する河川のことである。河川法に基づき、二級河川の規定を準用する(ウィキペディア)。

鶴見川一級河川だから国土交通大臣が管理する河川なのだが、掲示板には神奈川県管理と書かれている。国土交通省京浜河川事務所のホームページを見ると、国土交通省の管理区間は、河口から第三京浜道路までの17.4kmとなっている。日産スタジアム鶴見川多目的遊水池周辺の先までで、そこから上流は神奈川県が管理している。

 

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河口にはコサギの姿があった。黒須田川周辺は新興住宅地なので、史跡や寺社などが少ないが、野鳥の姿を楽しむことができ、すすき野3丁目からの3kmは遊歩道が整備されているから、散策するには格好の川だ。

(2020年10月記)

横浜の川を歩く5 宮川

 

宮川は、「横浜の川」(横浜市道路局河川部)によれば「金沢区釜利谷町付近を源流として東に向かい、平潟湾に注ぐ、延長約2.0kmの二級河川」だ。詳しく調べると、源流は「釜利谷西雨水調整池」(釜利谷西3-43)なので、ここから河口までの実測は、3.2kmあまりになる。河口から2kmの地点は、手子神社に近い宮下橋の先だ。ここから上流は釜利谷小川アメニティだから、アメニティの区間二級河川の扱いではないのだろう。

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 釜利谷西雨水調整池は、かなり広い。小学校がスッポリ入るくらいの大きさだ。集中豪雨のとき、ここに雨水を溜めて河川の氾濫を抑える。左下の貯水槽から道路の下を抜けて排水されるが、その水が釜利谷小川アメニティに注ぎ込んでいる。

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調整池から暗渠を通って、小川アメニティに流れ出すところ。豪雨でもアメニティが増水しないよう、流出口を狭くしている。 

 

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住宅密集地とは思えない、癒やしの空間だ。

 

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道の下を通って、湧き水のようになっている。

 

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周辺は、閑静な住宅街だ。

 

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ところどころに蓮池などが整備されている。地域の方々が丹精しているおかげで植物が生き生きとして、ゴミひとつなく気持ちのいい水辺だ。

 

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待橋から川面を見ると、錦鯉がたくさん泳いでいた。待橋の手前で釜利谷小川アメニティは終了し、二級河川宮川になる。

天保1年(1830)に完成した「新編武蔵国風土記稿」に、「水源ハ横手山ノ邊ヨリ流出ス・・・松橋ノ邊ニテ合シ・・・土人二俣川ト唱フ此川ニ長四間ノ橋を架ス松橋ト呼ヘリ」と記載されており、この松橋が現在の待橋なのだろう。宮川の上流が「二俣川」と呼ばれていたこともわかる。

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「新編武蔵国風土記稿」に「宿村入會ノ地ヨリ出ル水ト小名松橋ノ邊ニテ合シ」と書かれている支流が左手の川だ。このあたりにはミシシッピアカミミガメが数匹いて、のんびり日向ぼっこをしていた。

 

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宮川橋の手前に、大山祇命を祭神とする手子神社がある。境内に掲示された由緒書によれば、「文明五年(一四七三)釜利谷の領主であった伊丹左京亮が瀬戸神社の御分霊を宮ヶ谷の地に勧請したのを当社の創始と伝へる。・・・釜利谷一郷の総鎮守として衆庶上下の崇敬を集め、明治六年村社に列格」とある。釜利谷地域で重きをなす神社だ。

「新編武蔵国風土記稿」に、「手子明神ノ前ニテハ宮川ト呼リ」と書かれており、二俣川は、ここから宮川と名を変え、内海に流れ込んでいた。

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手子神社には境内社として「竹生島弁財天社」がある。この祠は、金沢八景「小泉夜雨」の起源となった瀟湘の松の下に祀られていたが、享保八年(1722)に手子神社に遷宮された(手子神社由緒)。

興味をひかれたのは狛犬だ。横浜金沢観光協会のウェブサイトにも「境内には、千尋の谷から這い上がる子とじっと待つ親という、珍しい狛犬があります」と紹介されている。慶応三年に建てられたらしい。

 

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宮川橋には、水位計とライブカメラが設置され、川の様子が横浜市の水防災情報サイトで公開されている。 

https://mizubousai.city.yokohama.lg.jp/

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クロダイを発見。河口が近くなってきた。

 

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ここから東南方向に90度カーブして、河口に向かう。このあたりが金沢八景「小泉夜雨」の地なのだろう。「新編武蔵国風土記稿」に「巽ノ方ニテ入海ナリ土人内川ト唱フ」と記され、江戸時代は内海のようになっていた。

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出典:Wikimedia Commons

歌川広重 金澤八景の内「小泉夜雨(こいずみのやう)」

このあたりは江戸中期に泥亀(でいき)新田として開発されたが、洪水や高潮のため、この浮世絵が描かれたとされる天保年間頃は、元の入海のような状態だった(「泥亀新田と沿岸部埋立」横浜市金沢区ホームページ)。「新編武蔵国風土記稿」に、「村内盬濱ノ邊ヲ小泉ノ夜雨ト稱シ」と記載されている。このあたりは塩浜(塩田)だった。晴れていれば、塩を焼く煙が立ち上っていたかもしれない。

 

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前方左手が、宮川左支川 との合流地点。

 

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宮川左支川を、源流まで遡ってみる。

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JA横浜 金沢支店横からは、親水公園になっている。「さわやか釜利谷せせらぎ緑道」だ。

 

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宮川左支川の源流。ここから先は暗渠の雨水路につながっている。

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宮川左支川から本川に戻り 、下流金沢文庫方面を望む。

 

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海が近いので、川縁のコンクリートには牡蠣がびっしり貼り付いている。

 

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京浜急行と並行して流れる谷津川との合流点。左手に青い橋が見えるが、これが宮川で、正面が谷津川だ。谷津川は駐輪場の下を通り、金沢文庫駅を抜けて、西柴中学校の先まで続く、全長1900mほどの川である。

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宮川の上を京浜急行が通過する。

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川沿いに京浜急行の金沢検車区があり、点検のため、電車が頻繁に出入りしている。

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右岸にはイオン、左手公園を進むと金沢図書館がある。先に見えるのは新瀬戸橋で、通っているのは横須賀に向かうメイン道路、横須賀街道だ。

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新瀬戸橋のたもとには宮川水質測定局が置かれ、横浜市はホームページで測定結果を毎月公開している。

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新瀬戸橋を抜けた左岸に「姫小島(ひめこじま)水門」(復元)がある。 新田開発のため、江戸時代中期の天明年間に建設された汐除用水門だ。海水が水田に流れ込まないようにする水門で、現在の新瀬戸橋のあたりに2基設置されていた。度重なる水害により破損、冠水の被害を受けたがそのつど復興し、昭和39年(1964)まで現存していた(説明文より)。

 

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姫小島跡(右手の林)。説明文に「その昔照手姫(てるてひめ)がこの島にて松葉いぶしの難に遭いたるを土地の人哀れみ 呼んで姫小島と云う」と書かれている。侍従川に投げ込まれた照手姫が村人に助け出された話は、「横浜の川を歩く 侍従川」でも書いたが、その後照手姫は漁師の妻によって松の木に縛り付けられ、松の葉でいぶり殺されそうになる。またもや観音様の慈悲によって助かるのだが、この事件が起きたのが姫小島だという。

昔、姫小島は宮川の中洲だったらしく、その両脇に姫小島水門が建っていたそうだ。

 

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河口には、しゃれたデザインの瀬戸橋が架かっている。一見するとアーチ橋のような桁橋だ。その先の高架を横浜シーサイドラインの車両がゆっくりと通り過ぎる。望遠で撮影したから近く見えるが、実際は200m以上離れている。

 

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都市的な町並みを流れる宮川だが、河口では漁師町の風情を感じさせてくれる。

ここが宮川の終点だ。

(2020年10月記)

横浜の川を歩く4 いたち川

いたち川は、漢字で「㹨川」と書き、これが正式名称である。「㹨」はJIS第一・第二水準で定義されていない特殊な字だ(ウィキペディアより)。普通なら「鼬川」と表記すべきところだが、「吾妻鏡」元仁元(1224)年六月六日の記事に「㹨河」の記載があり(新訂増補国史大系 吾妻鏡第三の18ページ)、明治期の刊行物にも「㹨川」「㹨河」と書かれているので、神奈川県もこの表記を尊重して「㹨」の字を使用している(「いたちかわらばん 通刊72号 2016年)。このブログでは、わかりやすいように「いたち川」と表記する。

二級河川に指定されているのは、神戸橋上流端から柏尾川に合流するまでの6.17kmだ。したがって、ここより上流は普通河川となる。横浜市は、いたち川の全長を7.18kmとしているが、源流のひとつであるミズキの谷までは8km程度あるようだ。

 

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横浜自然観察の森は、全国10カ所に計画された自然観察の森第1号として1987年にオープンした(「栄の歴史」はじめに)。いたち川源流の一つは、この自然観察の森にあるミズキの谷だ。この池には野鳥観察小屋があり、「ここが、いたち川の源流です」と書かれた看板が立っている。

 

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自然観察の森には他にも源流があり、 ここもそのひとつ。

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自然観察の森では、遊歩道の横を流れている。

 

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道路(環状4号線)向こうの左手奥には横浜霊園があり、その付近も、いたち川の源流とされている。こちらが本流らしくて、水量も豊富だ。道路をくぐり、グレーチングの下を流れて、少し先で自然観察の森からの流れと合流する。

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このあたりは「長倉町小川アメニティ」として整備され、休憩所もある。手押しポンプが目印だ。

 

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ミズキの谷から800mの地点。二つの源流は、ここで合流する。手前は横浜霊園からの流れ。隔壁の向こう側を自然観察の森からの小川が流れている。

 

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1800m地点は、特区農園になっている。市民菜園らしい。向こうに見えるこんもりした丘は、大丸山(おおまるやま)に続いている。大丸山は標高156.8mで、横浜市の最高峰である。

 

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農園の少し先に、昇龍橋(しょうりゅうばし)がある。明治30年代の末頃完成したと推測される、横浜市で最も古い石橋だ。古いだけでなく、姿も美しい。この橋は白山社の参道として架けられたが、社はすでになく、橋だけが残っている。

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昇竜橋横の山肌からも水が湧き出しており、ここも源流の一つだ。石積みが赤茶けているのは、鉄分を含んでいるからだそうだ(いたちかわらばん 通刊3号 1998年)。

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昇龍橋を渡った先は山道だが、人の通った形跡がない。戻る途中、橋のそばにやぐら(鎌倉時代のお墓)があった。

 

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モツゴらしき小魚が、たくさん泳いでいた。

 

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神戸橋を抜け、いたち川は上郷地区センターを周回するようにして流れる。

 

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庄戸郵便局前信号の50mほど手前に、起立講(きりゅうこう)の石碑群を見つけた。中心に据えられているのが、「御嶽山(おんたけさん)蔵王大権現」だ。

300mほど離れたところに横浜御嶽神社がある。この神社のホームページによれば、初代先達 森巳之助(みのすけ)氏が明治中期に建立。そして木曽御嶽山の神々をまつる起立講を結成し、ここを「御嶽山遥拝所」としたとのこと。

御嶽山の他にも、八海山、三笠山など10以上の石碑が建ち並び、馬頭観音や地蔵なども置かれ、壮観である。

 

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源流から3.5kmほど下ったところ。このへんから、川岸に彼岸花の群生が目立つようになってきた。いたち川には彼岸花がよく似合う。

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菩提寺(しょうぼだいじ)は文治五(1189)年に建てられた。

治承四(1180)年、源頼朝は石橋山で挙兵したが、衆寡敵せずに敗退した。このとき先陣を切ったのが弱冠25歳の佐那田与一義忠で、平家方の73騎を相手に壮絶な討ち死にを遂げたのである。自分の身代わりのようになって戦死した与一の忠義に報い、追善供養のために頼朝がこの寺を建立したといわれている(「源平盛衰記」)。

 

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源流から4.2km。

いたち川は昭和45年に河川改修の指定を受け、下流部分の工事は昭和60年に完成した。当時の施策は洪水対策を主眼に置いていたため、川はコンクリートで固められ、晴天時の水深は10cm以下、夏場の水温は40度以上で、魚が棲息できる環境ではなくなってしまった(いたちかわらばん 通刊41号 2008年)。その後、上流部が「ふるさと川事業」に指定され、水辺愛護会の努力もあって、この写真に見られるような美しい水辺としてよみがえったのだ。

 

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ひときわ目立つ扇橋。矢沢堀からの流れが合流している。

 

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天神橋からは、区役所・警察署・消防署・図書館などが建ち並ぶ栄区の中心街となる。橋の向こう側に四角い暗渠の排水口があるが、ここがもう一つの源流である新井沢川の合流地点だ。

 

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大いたち橋と小いたち橋。ここが瀬上沢との合流地点。左手から流れ込む瀬上沢も、瀬上池を源流とする、いたち川の支流だ。明治12年頃に完成した「皇国地誌」には、「猿田川(㹨川ニ合ス)」「猿田川(又上川トモ云)」と書かれており、明治期の名称は猿田川で、上川と呼んでいる村落もあった。

いたち川についても「大内川(又下川トモ云 即チ鼬川の上流ナリ)」とあり、ここから下流がいたち川だった。

(「神奈川県皇国地誌 相模国鎌倉郡村誌」(神奈川県郷土資料集成第十二輯))

 

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大いたち橋の欄干装飾は、大人のいたちだ。

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小いたち橋は、子ども。

 

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いたち川には鯉が多い。

水質汚染がひどかった1990年代のいたち川にはボウフラが湧き、住民たちは蚊に苦しめられていた。そこで横浜市は「フィッシュ ラブ ヨコハマ」と銘打った事業を立ち上げた。そして、汚染に強くてボウフラを餌にする魚として鯉を選び、2万匹を放流したのだ。しかし、鯉は水深の深い場所に集まったため、蚊の発生防止にはあまり役立たなかったそうだ(いたちかわらばん 通刊62号 2013年)。

そういえば、かつて汚染のひどかった大岡川や帷子川も鯉が多い。横浜市の施策だったのか。

 

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神奈川県警察学校のある海里橋、新橋(にいばし)のあたりは、鎌倉中の道、下の道など主要な街道の通り道だった(「栄の歴史」37ページ)。※ただし、下の道については異説あり。

「現代語訳 吾妻鏡9」(吉川弘文館)に、「元仁元年(1224)6月6日壬申。晴れ。炎旱が十日以上続いた。そこで今日、祈雨のため霊所で七瀬の御祓が行われた」と書かれているが、七瀬のひとつが㹨川だった。4日後に雨が降り、四日間降り続いたとも書かれている。「御祓」は、おそらくこのあたりで行われていたのだろう。

いたち川の名称について、動物のいたちではなく出立(いでたち)が転訛したものと考えられている。室町時代の「鎌倉年中行事」に、鎌倉公方が鎌倉を出発するとき、吉例によりいたち川で休憩したという記載がある。ここが旅立ちの起点という意味で、この川を出立川(いでたちがわ)と呼んだというのだ。この説には傍証もある。いたち川沿いにある光明寺は前身を仙福寺というが、北条時頼が発給した文書に「出立川仙福寺」の記載があるのだ(「栄の歴史」30ページ)。

また、交通の要衝であったこの地には宿駅があったと考えられている。

随筆「徒然草」で有名な吉田兼好が、いたち川を詠み込んだ和歌を作っているが、詞書に「さがみの国いたち河といふところにてこのところの名をく(句)のかしら(頭)にすへてたびの心を」とあり、

かにわが(立)ちにし日よりり(塵)のゐて風(ぜ)だにねや(閨)をら(払)はざるらん

と歌った。句の頭をつなげると「いたちかは」となる(兼好法師家集 岩波文庫昭和12年1月15日発行)P.31)。

兼好がこの地に止宿し、旅立ちの感慨を詠んでいるのだ。

 

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いたち川沿いのところどころに、彫刻が展示されている。この作品は、星野健司「ライダー・トリックスターⅨ」だ。

 

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終点が近い。柏尾川との合流から1kmの地点にアオサギがいた。

 

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柏尾川と合流する。やっとゴールだ。半円形に凹んでいるのは、魚道を確保するためである。

 

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合流地点をJR東海道線が横切る。横須賀線も通っている。上はJR根岸線だ。

(2020年10月記)