横浜の川を歩く7 日野川
日野川は大岡川水系に属し、横浜市港南区日野南と日野中央の2ヶ所を源流とする河川である。普通河川の日野川支流として始まり、途中から準用河川、二級河川とランクアップしながら上大岡付近で大岡川に合流している。
横浜市港南区日野中央3-20が、日野川右支流の源流だ。すぐそばに西松屋があるから、わかりやすい。横浜市の「大ちゃんマップ」を見ると、暗渠から先は雨水管となり、まっすぐ横浜横須賀道路の下あたりまで伸びている。
川沿いの道は裏通りだが旧街道なのだろう、交通量が多い。川の左部分を歩道にして、歩行者の安全を確保している。
源流から1200m下ると徳恩寺がある。川に架かる石橋と長屋門が古刹のたたずまいを見せている。
鎌倉街道に面した小高い森に鎮座しているのは春日神社だ。この社叢林は、横浜市指定天然記念物となっている。
春日神社は日野四村(吉原村、金井村、宮下村、宮ヶ谷村)の総鎮守。社殿は嘉永七年(1854)建立で、横浜市から有形文化財の指定を受けている。
境内には名木古木指定の立派な「夫婦木」がある。
春日神社参道に架かる「宮ノ前橋」の下を流れる。
上流は暗渠になる。左の高台に沿って南進し、住宅街の雨水管や調整池の排水と合流しているようだ。
川から一区画先は鎌倉街道で、景色は一変する。
下流の清水橋で流れが途絶えた日野川は、直角に200mほど離れたところから再び姿を現す。「日野川支流」の掲示板があるので、暗渠でつながっているのだろう。
手前から合流する右支流と、正面を左から右に流れていく左支流。
合流した川が、蛇行しながら流れてくる。先に見えるのは横浜横須賀道路の高架だ。
下流では護岸の整備工事を行っている。
環状2号線にほど近い、大岡川分水路。左が大岡川で、右が分水路だ。関東地方整備局の資料に「大岡川上流域では、昭和30年代を中心に大規模開発が行われ、流出量の増大で、しばしば溢水氾濫を起こしました」「このため神奈川県と横浜市では、協力して大岡川分水路を建設しました。横浜市港南区日野から根岸湾までのトンネル及び開水路(総延長約3.64km)は昭和56年に完成し、台風等による被害を防いでおります」と記載されている。
大岡川分水路に関する詳細は、以下をご覧ください。
分水路のトンネル入口。日野川トンネルの内径は8.9mだ。トンネルの先に環状2号線が走っている。
分水路の先は川幅が狭くなっている。
川から50m程先の表通りには、港南中央駅がある。区役所、警察署が立ち並ぶ。右は港南中学校だ。
日野川と大岡川(笹下川)の合流地点。右が日野川だ。この先は上大岡で、港南区の中心地である。川幅が広がり周辺が整備されて、住民と川の一体感が高まっている。
大岡川と合流したとたんに風景は一変する。私たちがイメージする大岡川は、ここから始まるといっていいだろう。
上大岡は両側を山にはさまれた谷地にある。繁華街に寄り添うようにして大岡川は流れていく。
(2020年11月記)
横浜の川を歩く6 黒須田川
黒須田川は川崎市麻生区を源流とし、横浜市青葉区を通って鶴見川に合流する準用河川である。横浜市道路局河川部が発行する冊子「横浜の川」では、市長管理部分の延長を2,820mとしている。これは、川崎市との市境から横浜市に入るすすき野3丁目を起点とした距離で、源流までの総延長は4,700mほどになる。
王禅寺日吉谷調整池。ここが源流のひとつと言ってよいだろう。案内板にも、黒須田川に流れ込むと書かれている。坂の下に川の始点がある。
「日吉」交差点。ベージュ色の建物の向こうに調整池があり、右下の小薮から水が流れ出している。
植物に隠れてわかりにくいが、ここが川の始まりだ。
紅葉が始まった木々の向こうを流れている。源流の調整池から300m。
家の左手は山だ。WEBで公開されている「地理院地図」によると、標高が83m程度ある。黒須田川は、その際を流れ下る。川のところが54mだから、標高差は約30mになる。
山王社(日枝神社)の社殿前から下の道路を望む。階段で100段以上の高さだ。川は、道の向こう側を流れている。案内板によれば、山王社の祭神は大山咋神(おおやまくいのかみ)で、王禅寺村の鎮守五社のひとつである。
源流から1500mほど下ると右手が開けた平地になり、畑が作られている。市民菜園だろうか。ここは独特な地形で、ワインボトルの底のように、中央が盛り上がっている。それが右手の小山で、東京都市大学の原子力研究所がある。この山を中心にして、半円を描くように高台が周回し、その縁に沿って黒須田川が流れている。左下に水面が見える。平地は川崎市、高台は横浜市で、川が市境だ。
道路の下をくぐって流出する。ここからが、横浜市長管理の準用河川なのだろう。
風景が一変し、住宅地を貫いて直線的に流れる。国土地理院が提供する航空写真を見ると、1960年代の黒須田川は、細かく蛇行している。それが1974年以降の写真では、現在とほぼ同じ流れになっていることがわかる。おそらく1973年の土地区画整理事業のとき、黒須田川も整備されたのだろう。その後、都市再生整備計画に基づき2006年から2010年にかけて黒須田川周辺は再整備され、上・中流の遊歩道が完成した。今では下流域にも遊歩道が設置され、準用河川部分の約3kmを川に沿って散策することができる(1カ所を除く)。
アーチ橋が風景に彩りを添えている。子金橋(こがねばし)だ。河口から500mの地点。
支流が流れ込む。すぐ先でコンクリートに覆われた暗渠になっている。
エサを探して泳ぐマガモ。黒須田川には魚が少ないが、水辺の鳥は種類が多い。カルガモはもちろんのこと、この日はマガモの他にもキセキレイ、カワセミ、コサギを見た。
河口付近には平地が広がり、農業地区になっている。「浜なし」が有名で、完熟した梨を直接消費者に届ける販売手段をとっているため、スーパーなどの店頭に並ぶことがほとんどない高級ブランドだ。取材した10月下旬は梨の時期ではなくて、柿が鈴なりだった。
黒須田川河口を鶴見川サイクリングコースから撮影。振り向くと、そこが鶴見川だ。
黒須田川の終点。鶴見川に合流する。
準用河川とは、一級河川及び二級河川以外の「法定外河川」のうち、市町村長が指定し管理する河川のことである。河川法に基づき、二級河川の規定を準用する(ウィキペディア)。
鶴見川は一級河川だから国土交通大臣が管理する河川なのだが、掲示板には神奈川県管理と書かれている。国土交通省京浜河川事務所のホームページを見ると、国土交通省の管理区間は、河口から第三京浜道路までの17.4kmとなっている。日産スタジアム・鶴見川多目的遊水池周辺の先までで、そこから上流は神奈川県が管理している。
河口にはコサギの姿があった。黒須田川周辺は新興住宅地なので、史跡や寺社などが少ないが、野鳥の姿を楽しむことができ、すすき野3丁目からの3kmは遊歩道が整備されているから、散策するには格好の川だ。
(2020年10月記)
横浜の川を歩く5 宮川
宮川は、「横浜の川」(横浜市道路局河川部)によれば「金沢区釜利谷町付近を源流として東に向かい、平潟湾に注ぐ、延長約2.0kmの二級河川」だ。詳しく調べると、源流は「釜利谷西雨水調整池」(釜利谷西3-43)なので、ここから河口までの実測は、3.2kmあまりになる。河口から2kmの地点は、手子神社に近い宮下橋の先だ。ここから上流は釜利谷小川アメニティだから、アメニティの区間は二級河川の扱いではないのだろう。
釜利谷西雨水調整池は、かなり広い。小学校がスッポリ入るくらいの大きさだ。集中豪雨のとき、ここに雨水を溜めて河川の氾濫を抑える。左下の貯水槽から道路の下を抜けて排水されるが、その水が釜利谷小川アメニティに注ぎ込んでいる。
調整池から暗渠を通って、小川アメニティに流れ出すところ。豪雨でもアメニティが増水しないよう、流出口を狭くしている。
住宅密集地とは思えない、癒やしの空間だ。
道の下を通って、湧き水のようになっている。
周辺は、閑静な住宅街だ。
ところどころに蓮池などが整備されている。地域の方々が丹精しているおかげで植物が生き生きとして、ゴミひとつなく気持ちのいい水辺だ。
待橋から川面を見ると、錦鯉がたくさん泳いでいた。待橋の手前で釜利谷小川アメニティは終了し、二級河川宮川になる。
天保1年(1830)に完成した「新編武蔵国風土記稿」に、「水源ハ横手山ノ邊ヨリ流出ス・・・松橋ノ邊ニテ合シ・・・土人二俣川ト唱フ此川ニ長四間ノ橋を架ス松橋ト呼ヘリ」と記載されており、この松橋が現在の待橋なのだろう。宮川の上流が「二俣川」と呼ばれていたこともわかる。
「新編武蔵国風土記稿」に「宿村入會ノ地ヨリ出ル水ト小名松橋ノ邊ニテ合シ」と書かれている支流が左手の川だ。このあたりにはミシシッピアカミミガメが数匹いて、のんびり日向ぼっこをしていた。
宮川橋の手前に、大山祇命を祭神とする手子神社がある。境内に掲示された由緒書によれば、「文明五年(一四七三)釜利谷の領主であった伊丹左京亮が瀬戸神社の御分霊を宮ヶ谷の地に勧請したのを当社の創始と伝へる。・・・釜利谷一郷の総鎮守として衆庶上下の崇敬を集め、明治六年村社に列格」とある。釜利谷地域で重きをなす神社だ。
「新編武蔵国風土記稿」に、「手子明神ノ前ニテハ宮川ト呼リ」と書かれており、二俣川は、ここから宮川と名を変え、内海に流れ込んでいた。
手子神社には境内社として「竹生島弁財天社」がある。この祠は、金沢八景「小泉夜雨」の起源となった瀟湘の松の下に祀られていたが、享保八年(1722)に手子神社に遷宮された(手子神社由緒)。
興味をひかれたのは狛犬だ。横浜金沢観光協会のウェブサイトにも「境内には、千尋の谷から這い上がる子とじっと待つ親という、珍しい狛犬があります」と紹介されている。慶応三年に建てられたらしい。
宮川橋には、水位計とライブカメラが設置され、川の様子が横浜市の水防災情報サイトで公開されている。
https://mizubousai.city.yokohama.lg.jp/
クロダイを発見。河口が近くなってきた。
ここから東南方向に90度カーブして、河口に向かう。このあたりが金沢八景「小泉夜雨」の地なのだろう。「新編武蔵国風土記稿」に「巽ノ方ニテ入海ナリ土人内川ト唱フ」と記され、江戸時代は内海のようになっていた。
出典:Wikimedia Commons
歌川広重 金澤八景の内「小泉夜雨(こいずみのやう)」
このあたりは江戸中期に泥亀(でいき)新田として開発されたが、洪水や高潮のため、この浮世絵が描かれたとされる天保年間頃は、元の入海のような状態だった(「泥亀新田と沿岸部埋立」横浜市金沢区ホームページ)。「新編武蔵国風土記稿」に、「村内盬濱ノ邊ヲ小泉ノ夜雨ト稱シ」と記載されている。このあたりは塩浜(塩田)だった。晴れていれば、塩を焼く煙が立ち上っていたかもしれない。
前方左手が、宮川左支川 との合流地点。
宮川左支川を、源流まで遡ってみる。
JA横浜 金沢支店横からは、親水公園になっている。「さわやか釜利谷せせらぎ緑道」だ。
宮川左支川の源流。ここから先は暗渠の雨水路につながっている。
海が近いので、川縁のコンクリートには牡蠣がびっしり貼り付いている。
京浜急行と並行して流れる谷津川との合流点。左手に青い橋が見えるが、これが宮川で、正面が谷津川だ。谷津川は駐輪場の下を通り、金沢文庫駅を抜けて、西柴中学校の先まで続く、全長1900mほどの川である。
宮川の上を京浜急行が通過する。
川沿いに京浜急行の金沢検車区があり、点検のため、電車が頻繁に出入りしている。
右岸にはイオン、左手公園を進むと金沢図書館がある。先に見えるのは新瀬戸橋で、通っているのは横須賀に向かうメイン道路、横須賀街道だ。
新瀬戸橋のたもとには宮川水質測定局が置かれ、横浜市はホームページで測定結果を毎月公開している。
新瀬戸橋を抜けた左岸に「姫小島(ひめこじま)水門」(復元)がある。 新田開発のため、江戸時代中期の天明年間に建設された汐除用水門だ。海水が水田に流れ込まないようにする水門で、現在の新瀬戸橋のあたりに2基設置されていた。度重なる水害により破損、冠水の被害を受けたがそのつど復興し、昭和39年(1964)まで現存していた(説明文より)。
姫小島跡(右手の林)。説明文に「その昔照手姫(てるてひめ)がこの島にて松葉いぶしの難に遭いたるを土地の人哀れみ 呼んで姫小島と云う」と書かれている。侍従川に投げ込まれた照手姫が村人に助け出された話は、「横浜の川を歩く 侍従川」でも書いたが、その後照手姫は漁師の妻によって松の木に縛り付けられ、松の葉でいぶり殺されそうになる。またもや観音様の慈悲によって助かるのだが、この事件が起きたのが姫小島だという。
昔、姫小島は宮川の中洲だったらしく、その両脇に姫小島水門が建っていたそうだ。
河口には、しゃれたデザインの瀬戸橋が架かっている。一見するとアーチ橋のような桁橋だ。その先の高架を横浜シーサイドラインの車両がゆっくりと通り過ぎる。望遠で撮影したから近く見えるが、実際は200m以上離れている。
都市的な町並みを流れる宮川だが、河口では漁師町の風情を感じさせてくれる。
ここが宮川の終点だ。
(2020年10月記)
横浜の川を歩く4 いたち川
いたち川は、漢字で「㹨川」と書き、これが正式名称である。「㹨」はJIS第一・第二水準で定義されていない特殊な字だ(ウィキペディアより)。普通なら「鼬川」と表記すべきところだが、「吾妻鏡」元仁元(1224)年六月六日の記事に「㹨河」の記載があり(新訂増補国史大系 吾妻鏡第三の18ページ)、明治期の刊行物にも「㹨川」「㹨河」と書かれているので、神奈川県もこの表記を尊重して「㹨」の字を使用している(「いたちかわらばん 通刊72号 2016年)。このブログでは、わかりやすいように「いたち川」と表記する。
二級河川に指定されているのは、神戸橋上流端から柏尾川に合流するまでの6.17kmだ。したがって、ここより上流は普通河川となる。横浜市は、いたち川の全長を7.18kmとしているが、源流のひとつであるミズキの谷までは8km程度あるようだ。
横浜自然観察の森は、全国10カ所に計画された自然観察の森第1号として1987年にオープンした(「栄の歴史」はじめに)。いたち川源流の一つは、この自然観察の森にあるミズキの谷だ。この池には野鳥観察小屋があり、「ここが、いたち川の源流です」と書かれた看板が立っている。
自然観察の森には他にも源流があり、 ここもそのひとつ。
自然観察の森では、遊歩道の横を流れている。
道路(環状4号線)向こうの左手奥には横浜霊園があり、その付近も、いたち川の源流とされている。こちらが本流らしくて、水量も豊富だ。道路をくぐり、グレーチングの下を流れて、少し先で自然観察の森からの流れと合流する。
このあたりは「長倉町小川アメニティ」として整備され、休憩所もある。手押しポンプが目印だ。
ミズキの谷から800mの地点。二つの源流は、ここで合流する。手前は横浜霊園からの流れ。隔壁の向こう側を自然観察の森からの小川が流れている。
1800m地点は、特区農園になっている。市民菜園らしい。向こうに見えるこんもりした丘は、大丸山(おおまるやま)に続いている。大丸山は標高156.8mで、横浜市の最高峰である。
農園の少し先に、昇龍橋(しょうりゅうばし)がある。明治30年代の末頃完成したと推測される、横浜市で最も古い石橋だ。古いだけでなく、姿も美しい。この橋は白山社の参道として架けられたが、社はすでになく、橋だけが残っている。
昇竜橋横の山肌からも水が湧き出しており、ここも源流の一つだ。石積みが赤茶けているのは、鉄分を含んでいるからだそうだ(いたちかわらばん 通刊3号 1998年)。
昇龍橋を渡った先は山道だが、人の通った形跡がない。戻る途中、橋のそばにやぐら(鎌倉時代のお墓)があった。
モツゴらしき小魚が、たくさん泳いでいた。
神戸橋を抜け、いたち川は上郷地区センターを周回するようにして流れる。
庄戸郵便局前信号の50mほど手前に、起立講(きりゅうこう)の石碑群を見つけた。中心に据えられているのが、「御嶽山(おんたけさん)蔵王大権現」だ。
300mほど離れたところに横浜御嶽神社がある。この神社のホームページによれば、初代先達 森巳之助(みのすけ)氏が明治中期に建立。そして木曽御嶽山の神々をまつる起立講を結成し、ここを「御嶽山遥拝所」としたとのこと。
御嶽山の他にも、八海山、三笠山など10以上の石碑が建ち並び、馬頭観音や地蔵なども置かれ、壮観である。
源流から3.5kmほど下ったところ。このへんから、川岸に彼岸花の群生が目立つようになってきた。いたち川には彼岸花がよく似合う。
證菩提寺(しょうぼだいじ)は文治五(1189)年に建てられた。
治承四(1180)年、源頼朝は石橋山で挙兵したが、衆寡敵せずに敗退した。このとき先陣を切ったのが弱冠25歳の佐那田与一義忠で、平家方の73騎を相手に壮絶な討ち死にを遂げたのである。自分の身代わりのようになって戦死した与一の忠義に報い、追善供養のために頼朝がこの寺を建立したといわれている(「源平盛衰記」)。
源流から4.2km。
いたち川は昭和45年に河川改修の指定を受け、下流部分の工事は昭和60年に完成した。当時の施策は洪水対策を主眼に置いていたため、川はコンクリートで固められ、晴天時の水深は10cm以下、夏場の水温は40度以上で、魚が棲息できる環境ではなくなってしまった(いたちかわらばん 通刊41号 2008年)。その後、上流部が「ふるさと川事業」に指定され、水辺愛護会の努力もあって、この写真に見られるような美しい水辺としてよみがえったのだ。
ひときわ目立つ扇橋。矢沢堀からの流れが合流している。
天神橋からは、区役所・警察署・消防署・図書館などが建ち並ぶ栄区の中心街となる。橋の向こう側に四角い暗渠の排水口があるが、ここがもう一つの源流である新井沢川の合流地点だ。
大いたち橋と小いたち橋。ここが瀬上沢との合流地点。左手から流れ込む瀬上沢も、瀬上池を源流とする、いたち川の支流だ。明治12年頃に完成した「皇国地誌」には、「猿田川(㹨川ニ合ス)」「猿田川(又上川トモ云)」と書かれており、明治期の名称は猿田川で、上川と呼んでいる村落もあった。
いたち川についても「大内川(又下川トモ云 即チ鼬川の上流ナリ)」とあり、ここから下流がいたち川だった。
(「神奈川県皇国地誌 相模国鎌倉郡村誌」(神奈川県郷土資料集成第十二輯))
大いたち橋の欄干装飾は、大人のいたちだ。
小いたち橋は、子ども。
いたち川には鯉が多い。
水質汚染がひどかった1990年代のいたち川にはボウフラが湧き、住民たちは蚊に苦しめられていた。そこで横浜市は「フィッシュ ラブ ヨコハマ」と銘打った事業を立ち上げた。そして、汚染に強くてボウフラを餌にする魚として鯉を選び、2万匹を放流したのだ。しかし、鯉は水深の深い場所に集まったため、蚊の発生防止にはあまり役立たなかったそうだ(いたちかわらばん 通刊62号 2013年)。
そういえば、かつて汚染のひどかった大岡川や帷子川も鯉が多い。横浜市の施策だったのか。
神奈川県警察学校のある海里橋、新橋(にいばし)のあたりは、鎌倉中の道、下の道など主要な街道の通り道だった(「栄の歴史」37ページ)。※ただし、下の道については異説あり。
「現代語訳 吾妻鏡9」(吉川弘文館)に、「元仁元年(1224)6月6日壬申。晴れ。炎旱が十日以上続いた。そこで今日、祈雨のため霊所で七瀬の御祓が行われた」と書かれているが、七瀬のひとつが㹨川だった。4日後に雨が降り、四日間降り続いたとも書かれている。「御祓」は、おそらくこのあたりで行われていたのだろう。
いたち川の名称について、動物のいたちではなく出立(いでたち)が転訛したものと考えられている。室町時代の「鎌倉年中行事」に、鎌倉公方が鎌倉を出発するとき、吉例によりいたち川で休憩したという記載がある。ここが旅立ちの起点という意味で、この川を出立川(いでたちがわ)と呼んだというのだ。この説には傍証もある。いたち川沿いにある光明寺は前身を仙福寺というが、北条時頼が発給した文書に「出立川仙福寺」の記載があるのだ(「栄の歴史」30ページ)。
また、交通の要衝であったこの地には宿駅があったと考えられている。
随筆「徒然草」で有名な吉田兼好が、いたち川を詠み込んだ和歌を作っているが、詞書に「さがみの国いたち河といふところにてこのところの名をく(句)のかしら(頭)にすへてたびの心を」とあり、
いかにわがた(立)ちにし日よりちり(塵)のゐて風(かぜ)だにねや(閨)をはら(払)はざるらん
と歌った。句の頭をつなげると「いたちかは」となる(兼好法師家集 岩波文庫(昭和12年1月15日発行)P.31)。
兼好がこの地に止宿し、旅立ちの感慨を詠んでいるのだ。
いたち川沿いのところどころに、彫刻が展示されている。この作品は、星野健司「ライダー・トリックスターⅨ」だ。
終点が近い。柏尾川との合流から1kmの地点にアオサギがいた。
柏尾川と合流する。やっとゴールだ。半円形に凹んでいるのは、魚道を確保するためである。
合流地点をJR東海道線が横切る。横須賀線も通っている。上はJR根岸線だ。
(2020年10月記)
横浜の川を歩く3 侍従川
侍従川は、横浜市金沢区朝比奈の森を源流として平潟湾に流れ込む、全長約4000mの川である。大道橋の下流端から河口までの2620mは、神奈川県知事管理の二級河川に指定されている。
侍従川の名は、小栗判官・照手姫の伝説と深く関わっている。藤沢市の遊行寺に伝わる「小栗略縁起」によると‥‥‥
小栗判官を毒殺しようとした横山大膳のもとを逃れ六浦まで来た照手姫は、とうとう追っ手に捕まり身ぐるみをはがれて川に投げ込まれた。観音様の功徳によって助かるのだが、姫を探しに来た乳母の侍従は姫を見つけることができず、絶望して川に身を投げてしまった。それから、この川は侍従川と呼ばれるようになったといわれている(楠山永雄「ぶらり金沢散歩道」より)。
古都鎌倉に近く、広重の浮世絵で有名な金沢八景の景勝地(内川暮雪)としても知られる侍従川は、史跡や伝説に彩られた歴史の川だ。
侍従川にはたくさんの支流が流れ込んでおり、「ここが源流」という場所を指定することができない。「タウンニュース金沢区・磯子区版」に掲載されたNPO法人横濱金澤シティガイド協会の記事によれば、源流は「朝比奈峠の熊野神社付近」とのこと。今回の探訪ではグーグルの地図を頼りに、横浜横須賀道路朝比奈IC出口付近が源流の一つと判断し、現場を訪ねてみた。
ところが、川は暗渠になっており、源流を見ることができない。そこで、もう少し下流に移動し、川が見える場所を探した。
スタート地点から250mほど下った藪の中に、暗渠からの出口があった。四角い出口の左右にも排水管があり、特に右の管は水量が豊富だ。個人的には、ここが源流にふさわしいと思った。
320m地点。くの字に折れて手前に流れていく。人の入ることができない藪の中だが、石垣が築かれており、昔は道だったのかもしれない。朝夷奈切通し方面からの小川が、左手から合流している。
下流に向かって左手は、山のように高い崖だ。地層がむき出しになっている。四角くえぐられた穴が横一列に連なっており、柱穴のようだがよくわからない。
侍従川に沿って走る環状4号には、朝比奈バス停付近から朝夷奈切通しへの分岐がある。ところが、昨年の台風により落石があったらしく、通行止めになっていた(2020年9月11日現在)。
朝夷奈切通しから環状4号を通り、六浦から瀬戸神社へ至る道は、鎌倉下の道で、中世の幹線道路だ(芳賀善次郎「旧鎌倉街道探索の旅2 中道下道」)。※下道のルートについては異説もある。
環状4号の下を抜けて、南側に流れていく。
しばらくは水路のような味気ない流れが続くが、三信住宅入口交差点近くから川らしい風景になった。
大道中前バス停横に鼻欠地蔵がある。風化してしまい、どこが地蔵かわからないが、説明の看板に「江戸名所図会」の挿絵が載っているので、面影を想像することができる。
1050m地点で、左から支流が合流する。
「ふるさと侍従川に親しむ会」が、川に棲息する生き物の観察や清掃など、様々な活動を行っている。侍従川は地域の方々から愛されているようだ。
この看板の枠は、新しくしたほうがいいと思う。
源流から1300m付近の大道橋。ここから河口までの2620mが、神奈川県知事管理の二級河川に指定されている。つまり源流から大道橋までは普通河川だ。
大道小学校付近。護岸が整備され、川幅が広くなってきた。
源流から2300m付近の侍従橋。ここで鎌倉下の道は侍従川から離れ、上行寺(じょうぎょうじ)方面に北上していく。
上行寺の裏山には、「徒然草」で知られる吉田兼好が一時期住んでいたそうだ。彼が六浦あたりに居住していたことには史料の裏付けがあるので、信憑性が高い(WEBサイト「記恩ケ丘」内の記事「郷土史研究 金沢八景に住んでいた吉田兼好」)。
また、上行寺付近からは「上行寺東遺跡」という、中世のやぐら群(墓地)が発見され、マンション建設のために破壊されたものの、一部は復元されており、見学することができる。
平潟湾まで1400mの地点。汽水域なので、ボラの群れが気持ちよさそうに泳いでいる。40cmほどのエイも見かけた。
踏切を越えると、庚申塔が二基建っていた。これは三艘(さんぞう)の庚申塚といい、右は寛文十年(1670)、左は享保九年(1724)の建立だ。(横濱金澤シティガイド協会のWEBページより)
神奈川県が管理する区間には、きれいな看板が建っている。向こうに見えるのは、京浜急行逗子線の鉄橋。
こちらは京浜急行本線。京急逗子線とはスピード感が違うような。
平潟湾から900m地点の内川橋。この広い道路は、横浜と横須賀を結ぶ横須賀街道だ。
内川橋の欄干にはレリーフが取り付けられ、雁があしらわれている。金沢八景のひとつ、平潟落雁(ひらかたのらくがん)である。
河口から2番目にある雪見橋の向かいに、内川暮雪(うちかわのぼせつ)を紹介するタイルプレートがあった。左手の小山は金龍院九覧亭で、右には野島が見えている。
河口に架かる平潟橋。小川だった侍従川が、2000mも行かないうちに堂々とした大河になった。潮の干満により大量の海水が流れ込むため、河口が広くなっているのだろう。
黄色いブイの浮かんでいるところが侍従川の河口。奥に見えるこんもりとした高台は瀬戸神社だ。
河口の右手に見えるのは野島だ。野島には、旧伊藤博文金沢別邸や野島貝塚などの史跡があり、展望台からの絶景を楽しむこともできる。
野島に架かる橋は、金沢八景の一つ、野島夕照(のじまのせきしょう)から名付けられた夕照橋だ。
(2020年9月記)
横浜の川を歩く1 今井川
今井川は帷子(かたびら)川水系に属する、全長が5590mの二級河川である。源流は環状2号線の高架下だが、以前は850mほど上流まで川が続いていた。その部分は雨水管線として暗渠になったが、地元住民や今井小学校5年生児童などの要望により、埋め立てられた区間が「今井川いこいの水辺」としてよみがえった。
この区間を今井川に含めるとすると、源流は神奈川県立商工高校の裏手あたりになる。
環状2号線下の暗渠から流れ出す今井(いまい)川源流 。横浜市の「だいちゃんマップ」を見ると、周辺住宅地からの雨水が集中してここに流れ込んでいるのが確認できる。
源流のあたりは人が近寄れない藪になっている。
鎌倉橋(源流から200m)。
鎌倉橋が架けられている道は人通りがほとんどない裏道だが、付近では各所から縄文時代の遺跡が見つかっており、古くから開けた場所だった。
この先の今井街道を横断し、少し登ったところに今井砦址がある。 昭和30年、この場所から常滑焼の大きな甕が掘り出され、その中には、約400kgもの大量の古銭が入っていた。出土した古銭は中国からの渡来銭で、鎌倉期から戦国時代にかけて使用されたものだった(横浜市保土ケ谷区ホームページより)。後北条氏の砦が築かれていたのかもしれない。
今では忘れ去られた道だが、かつては鎌倉往還の脇道として利用された、主要道路だったのだろう。
鎌倉橋の手前から川らしくなってきた。
田嶋稲荷神社(源流から320m)。
旧村社である子(ね)神社の末社で、2月には田嶋稲荷の初午祭が子神社で執り行われる。稲荷社らしい赤い幟がたくさん奉納されているが、幟には、旧家の方たちのお名前がずらりと並んでいる。古くは今井村であったこの地域の、五穀豊穣を願う神社なのだろう。
450m地点。建物をぬうように、曲がりくねりながら流れていく。
740mあたり、水門の左手に遊水池がある。
相模鉄道バスの 今井橋バス停。川は橋をくぐって今井街道の向こうへ。
再び今井街道の下を抜けると、その先は未整備の状態だ。
1350m地点からは、JR東海道・横須賀線と並行して流れる。
1630m地点で直角に折れて線路をくぐる。レンガ積みの由緒ありそうな水路だが、向こう側が立入り禁止区域なので近寄って確認することができない。
2330m地点の元町橋を境にして、下流は河岸が整備された。
ここから帷子川合流地点までの3km余りは、旧東海道と並行して流れていく。
右手の盛り上がったところは蛇山で、東海道分間延絵図にも描かれているが、宅地開発により縮小した。東海道巡りのランドマークとして、残しておいてほしい景観である。その向こう側を国道1号線が通っている。
保土ケ谷区内を流れる今井川には、カルガモがたくさん生息している。区民から親しまれており、平成元年に保土ケ谷区の鳥に指定された。
今井川の氾濫を防ぐため、平成16年に「今井川地下調節池」が完成した。直径10.8m、長さ2000mの地下トンネルに、178,000トンの水を蓄えることができる。このトンネルは、国道1号線の狩場インターから権太坂の最高地点あたりまでの地下約60mのところに作られている。
箱根駅伝で2区(9区)を疾走するランナーたちの足もと深く、誰も気づかないところで横浜市民の生活を守っているのだ。
今井川地下調節池の取水口は源流から2600mの地点にある。右を流れるのが今井川で、水量が増すと中央の隔壁を越えて左の取水口に流れ込む仕組みになっている。ここで砂などの不純物を取り除かれた後、氾濫水はトンネルに貯えられる。
今井川地下調節池管理棟。この建物の地下深くに揚水ポンプが2基設置されており、増水がおさまったら、トンネルに溜まった水を今井川に排水する。
今井川地下調節池排水口。左手に管理棟がある。2800m地点。
管理棟のある場所には、今井川の横に遊水池も作られており、二重の治水対策が施されている。
一里塚と上方見付の案内板(3400m地点)。このあたりが東海道保土ケ谷宿の西端、上方見付だ。一里塚もあった(東海道分間延絵図)。
案内板の向かいには、今井川をはさんで外川(とがわ)神社がある。幕末の頃、出羽三山講の講元で先達でもあった淸宮輿一が外川仙人大権現を勧請して祀ったのがはじまりで、明治2年の神仏分離令のとき祭神を日本武尊に改め、社名を外川神社とした(外川神社御由緒)。
境内には道祖神社、稲荷社も祀られているが、横浜市史稿(昭和10年)によれば、鉄道敷設のときに宿内から移設したのだそうだ。
外川神社横の今井川に向き合う位置に、湯殿山供養塔などが建っている。境内には他に「小寿鶏放翔感謝之碑(コジュケイほうしょうかんしゃのひ」もある。狩猟鳥を増やす目的で、農林省が1919年に中国から移入し、東京と神奈川に放したのが、日本でコジュケイが繁殖したきっかけだった。そのことを記念し、昭和36年に建てられた。
そういえば、このあいだ久良木公園を散歩していたら2羽のコジュケイを見かけた。横浜では、まだ棲息しているようだ。
3930m地点の保土ケ谷宿刈部本陣跡。
保土ケ谷宿は、刈部家が代々本陣を勤めていた。今井川とも深い関わりがあって、「保土ケ谷ものがたり」(保土ケ谷区制五十周年記念誌)によると、むかしの今井川は、保土ケ谷の中之橋のところから、往還を横切って天徳院前を流れて帷子川に合流していたので、川の流れが屈曲甚だしく、二、三日の降雨にあえばたちまち氾濫するという具合で、宿内の悩みだった。そこで、十代目刈部清兵衛(1793-1865)が幕府に河川改修の嘆願をしたが入れられず、一切を宿内の費用でやろうと決心して、とうとう嘉永6年(1853)から7年にかけて新川開さくのことをなし遂げた。掘った土のやり場に困ったが、清兵衛翁が知恵をめぐらせ、品川台場の盛り土として売り払った。
現在の今井川は、刈部本陣前の保土ヶ谷橋で左に折れてからは、河口までほぼまっすぐに流れているが、これは刈部清兵衛翁の功績なのである。
保土ケ谷にすぎたるものが二つあり 帷子(かたびら)の名と刈部清兵衛
という歌が残っている。
東海道と金沢道の分岐である金沢横丁に建てられた道標。東海道にはたくさんの遺跡が残っているが、その中でも特に知られたスポットだ。以前は通行量の多い道路に面したところにあって破損する心配があったが、ビルを建て直すとき、オーナーの市野屋さんが敷地内の安全な場所に移設してくださった。「保土ケ谷宿 お休み処」も併設され、観光客への配慮が行き届いている。
保土ヶ谷駅西口駅前の下を流れる。上は駐輪場だ。右手に駅舎があるが、駅前らしい風情は感じられない。
正面の左に、駅への階段がある。川は駐輪場の下を流れている。
4500m地点に、水位標識があった。
5200m地点。完璧に整備され、川というより水路のようだ。
相模鉄道線の下を抜けると、いよいよ終点だ。
帷子川との合流地点。今井川の旅はここで終了する。
(2020年6月記)
横浜の川を歩く2 馬洗川
馬洗川は、横浜市港南区野庭町2600あたりの谷戸を源流とし、港南区丸山台一丁目の馬洗橋まで、約3040mを流れる川である。馬洗橋からは名称が平戸永谷川に変わり、4920m下流で阿久和川と合流して柏尾川と名を変え、藤沢市で境川と合流し江ノ島付近で相模湾に流れ込んでいる。
横浜市が行政上の河川と規定している56の河川に馬洗川は含まれていない。普通河川という扱いなのだろう。それでもこの川が馬洗川と呼ばれ、親しまれているのは、この呼び名が古くから定着しているからだ。
江戸時代(天保年間)に作られた「新編相模国風土記稿」に「馬洗川 元禄国図ニモ馬洗川ト載ス。鎌倉古路係リシ頃此流ニテ馬ヲ洗ヒシヨリ此名アリト云フ」と書かれており、元禄の頃から馬洗川と呼ばれていた。
「こうなん道ばたの風土記 改訂版」は馬洗川に沿う道を鎌倉下の道と想定している。「下の道」については、朝比奈切通しから金沢八景-能見台-打越方面に抜けるルートとする説もあるが、いずれにしても馬洗橋のあたりは、鎌倉、金沢、弘明寺、保土ケ谷などへ向かう交通の要路となっており、交通手段として使われていた馬を休ませ、川で身体を洗うのに格好な場所だったのだろう。
馬洗川(うまあらいがわ)の源流は、周辺の住宅地住宅地から流れ込む雨水などを暗渠に集めて、コンクリートの水路から流れ出している。
源流付近の風景。
源流から300mほど歩くと、草むらに2基の石塔がある。立入り不可なのでよくわからないが、左は庚申塔で、「右 かまくら道」と刻まれているようだ。
源流から350m。まだ水路の状態だ。
650m地点。川は森の縁を流れている。
700m地点に野庭神社がある。
850m。川らしくなってきた。
900m。川を渡った道路脇に二基の石塔がある。「こうなん道ばたの風土記 改訂版」によれば、右は延宝6(1678)年の庚申塔で、左は明治13年銘の堅牢地神塔だ。耳慣れない名称だが、ウィキペディアによれば、地神塔は東日本では神奈川県に多く、五穀豊穣を祈願する農耕神の性格もあるらしい。
1070mあたりから暗渠になり、200mほど先で再び姿を現したところから「馬洗川せせらぎ緑道」が併設され、憩いの場となっている。
せせらぎ緑道の木道が続く。
川の脇には湧き水が集まり、小さな池になっているところがある。
池にはシオカラトンボのつがいが休んでいた。
1500m地点。住宅密集地だが、野趣ある風景だ。
1900m地点。天谷大橋を過ぎたところに明治32年建立の馬頭観音がある。
川の東側は河岸段丘の高台になっており、横浜でも有数の規模を誇る野庭団地群が林立している。団地には広大な遊水池(野庭第二雨水調整池)が築かれているが、この写真は遊水池の出水口である。
馬洗川せせらぎ緑道を紹介した案内板があった。
2570m付近が急傾斜になっている。手前がせき止められ、奥に細い流路が築かれている。魚道のようにも見えるが、下った先の流路がくの字に曲がっているので、跳水現象による洪水の発生を防ぐために流量を調節する施設であろう。
カルガモが羽を休めている。横浜の川では必ずといっていいほどカルガモを見かける。
港南土木事務所手前。左の川は、港南区野庭町603の野庭神明社付近を源流とする全長1kmほどの支流で、横浜市の「だいちゃんマップ」には永谷川と記されているが、さだかではない。右が馬洗川だ。
いよいよゴール間近。上を走るのは横浜市営地下鉄だ。
馬洗橋の下から平戸永谷川と名を変え、河口までの新たな旅が始まる。ここが馬洗川の終点である。
馬洗橋には、馬洗の由来を記した案内板がある。「ふるさと港南の昔話50話」では、尼将軍北条政子が弘明寺参拝の途中にこの場所を通りかかったところ、馬を洗っている二人の若武者を見て非業の死を遂げた息子の頼家と実朝を思い出し、供養のため人々に施しをしたという古老の話が載っている。