横浜の川を歩く2 馬洗川
馬洗川は、横浜市港南区野庭町2600あたりの谷戸を源流とし、港南区丸山台一丁目の馬洗橋まで、約3040mを流れる川である。馬洗橋からは名称が平戸永谷川に変わり、4920m下流で阿久和川と合流して柏尾川と名を変え、藤沢市で境川と合流し江ノ島付近で相模湾に流れ込んでいる。
横浜市が行政上の河川と規定している56の河川に馬洗川は含まれていない。普通河川という扱いなのだろう。それでもこの川が馬洗川と呼ばれ、親しまれているのは、この呼び名が古くから定着しているからだ。
江戸時代(天保年間)に作られた「新編相模国風土記稿」に「馬洗川 元禄国図ニモ馬洗川ト載ス。鎌倉古路係リシ頃此流ニテ馬ヲ洗ヒシヨリ此名アリト云フ」と書かれており、元禄の頃から馬洗川と呼ばれていた。
「こうなん道ばたの風土記 改訂版」は馬洗川に沿う道を鎌倉下の道と想定している。「下の道」については、朝比奈切通しから金沢八景-能見台-打越方面に抜けるルートとする説もあるが、いずれにしても馬洗橋のあたりは、鎌倉、金沢、弘明寺、保土ケ谷などへ向かう交通の要路となっており、交通手段として使われていた馬を休ませ、川で身体を洗うのに格好な場所だったのだろう。
馬洗川(うまあらいがわ)の源流は、周辺の住宅地住宅地から流れ込む雨水などを暗渠に集めて、コンクリートの水路から流れ出している。
源流付近の風景。
源流から300mほど歩くと、草むらに2基の石塔がある。立入り不可なのでよくわからないが、左は庚申塔で、「右 かまくら道」と刻まれているようだ。
源流から350m。まだ水路の状態だ。
650m地点。川は森の縁を流れている。
700m地点に野庭神社がある。
850m。川らしくなってきた。
900m。川を渡った道路脇に二基の石塔がある。「こうなん道ばたの風土記 改訂版」によれば、右は延宝6(1678)年の庚申塔で、左は明治13年銘の堅牢地神塔だ。耳慣れない名称だが、ウィキペディアによれば、地神塔は東日本では神奈川県に多く、五穀豊穣を祈願する農耕神の性格もあるらしい。
1070mあたりから暗渠になり、200mほど先で再び姿を現したところから「馬洗川せせらぎ緑道」が併設され、憩いの場となっている。
せせらぎ緑道の木道が続く。
川の脇には湧き水が集まり、小さな池になっているところがある。
池にはシオカラトンボのつがいが休んでいた。
1500m地点。住宅密集地だが、野趣ある風景だ。
1900m地点。天谷大橋を過ぎたところに明治32年建立の馬頭観音がある。
川の東側は河岸段丘の高台になっており、横浜でも有数の規模を誇る野庭団地群が林立している。団地には広大な遊水池(野庭第二雨水調整池)が築かれているが、この写真は遊水池の出水口である。
馬洗川せせらぎ緑道を紹介した案内板があった。
2570m付近が急傾斜になっている。手前がせき止められ、奥に細い流路が築かれている。魚道のようにも見えるが、下った先の流路がくの字に曲がっているので、跳水現象による洪水の発生を防ぐために流量を調節する施設であろう。
カルガモが羽を休めている。横浜の川では必ずといっていいほどカルガモを見かける。
港南土木事務所手前。左の川は、港南区野庭町603の野庭神明社付近を源流とする全長1kmほどの支流で、横浜市の「だいちゃんマップ」には永谷川と記されているが、さだかではない。右が馬洗川だ。
いよいよゴール間近。上を走るのは横浜市営地下鉄だ。
馬洗橋の下から平戸永谷川と名を変え、河口までの新たな旅が始まる。ここが馬洗川の終点である。
馬洗橋には、馬洗の由来を記した案内板がある。「ふるさと港南の昔話50話」では、尼将軍北条政子が弘明寺参拝の途中にこの場所を通りかかったところ、馬を洗っている二人の若武者を見て非業の死を遂げた息子の頼家と実朝を思い出し、供養のため人々に施しをしたという古老の話が載っている。