横浜の川を歩く5 宮川

 

宮川は、「横浜の川」(横浜市道路局河川部)によれば「金沢区釜利谷町付近を源流として東に向かい、平潟湾に注ぐ、延長約2.0kmの二級河川」だ。詳しく調べると、源流は「釜利谷西雨水調整池」(釜利谷西3-43)なので、ここから河口までの実測は、3.2kmあまりになる。河口から2kmの地点は、手子神社に近い宮下橋の先だ。ここから上流は釜利谷小川アメニティだから、アメニティの区間二級河川の扱いではないのだろう。

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 釜利谷西雨水調整池は、かなり広い。小学校がスッポリ入るくらいの大きさだ。集中豪雨のとき、ここに雨水を溜めて河川の氾濫を抑える。左下の貯水槽から道路の下を抜けて排水されるが、その水が釜利谷小川アメニティに注ぎ込んでいる。

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調整池から暗渠を通って、小川アメニティに流れ出すところ。豪雨でもアメニティが増水しないよう、流出口を狭くしている。 

 

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住宅密集地とは思えない、癒やしの空間だ。

 

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道の下を通って、湧き水のようになっている。

 

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周辺は、閑静な住宅街だ。

 

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ところどころに蓮池などが整備されている。地域の方々が丹精しているおかげで植物が生き生きとして、ゴミひとつなく気持ちのいい水辺だ。

 

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待橋から川面を見ると、錦鯉がたくさん泳いでいた。待橋の手前で釜利谷小川アメニティは終了し、二級河川宮川になる。

天保1年(1830)に完成した「新編武蔵国風土記稿」に、「水源ハ横手山ノ邊ヨリ流出ス・・・松橋ノ邊ニテ合シ・・・土人二俣川ト唱フ此川ニ長四間ノ橋を架ス松橋ト呼ヘリ」と記載されており、この松橋が現在の待橋なのだろう。宮川の上流が「二俣川」と呼ばれていたこともわかる。

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「新編武蔵国風土記稿」に「宿村入會ノ地ヨリ出ル水ト小名松橋ノ邊ニテ合シ」と書かれている支流が左手の川だ。このあたりにはミシシッピアカミミガメが数匹いて、のんびり日向ぼっこをしていた。

 

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宮川橋の手前に、大山祇命を祭神とする手子神社がある。境内に掲示された由緒書によれば、「文明五年(一四七三)釜利谷の領主であった伊丹左京亮が瀬戸神社の御分霊を宮ヶ谷の地に勧請したのを当社の創始と伝へる。・・・釜利谷一郷の総鎮守として衆庶上下の崇敬を集め、明治六年村社に列格」とある。釜利谷地域で重きをなす神社だ。

「新編武蔵国風土記稿」に、「手子明神ノ前ニテハ宮川ト呼リ」と書かれており、二俣川は、ここから宮川と名を変え、内海に流れ込んでいた。

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手子神社には境内社として「竹生島弁財天社」がある。この祠は、金沢八景「小泉夜雨」の起源となった瀟湘の松の下に祀られていたが、享保八年(1722)に手子神社に遷宮された(手子神社由緒)。

興味をひかれたのは狛犬だ。横浜金沢観光協会のウェブサイトにも「境内には、千尋の谷から這い上がる子とじっと待つ親という、珍しい狛犬があります」と紹介されている。慶応三年に建てられたらしい。

 

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宮川橋には、水位計とライブカメラが設置され、川の様子が横浜市の水防災情報サイトで公開されている。 

https://mizubousai.city.yokohama.lg.jp/

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クロダイを発見。河口が近くなってきた。

 

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ここから東南方向に90度カーブして、河口に向かう。このあたりが金沢八景「小泉夜雨」の地なのだろう。「新編武蔵国風土記稿」に「巽ノ方ニテ入海ナリ土人内川ト唱フ」と記され、江戸時代は内海のようになっていた。

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出典:Wikimedia Commons

歌川広重 金澤八景の内「小泉夜雨(こいずみのやう)」

このあたりは江戸中期に泥亀(でいき)新田として開発されたが、洪水や高潮のため、この浮世絵が描かれたとされる天保年間頃は、元の入海のような状態だった(「泥亀新田と沿岸部埋立」横浜市金沢区ホームページ)。「新編武蔵国風土記稿」に、「村内盬濱ノ邊ヲ小泉ノ夜雨ト稱シ」と記載されている。このあたりは塩浜(塩田)だった。晴れていれば、塩を焼く煙が立ち上っていたかもしれない。

 

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前方左手が、宮川左支川 との合流地点。

 

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宮川左支川を、源流まで遡ってみる。

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JA横浜 金沢支店横からは、親水公園になっている。「さわやか釜利谷せせらぎ緑道」だ。

 

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宮川左支川の源流。ここから先は暗渠の雨水路につながっている。

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宮川左支川から本川に戻り 、下流金沢文庫方面を望む。

 

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海が近いので、川縁のコンクリートには牡蠣がびっしり貼り付いている。

 

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京浜急行と並行して流れる谷津川との合流点。左手に青い橋が見えるが、これが宮川で、正面が谷津川だ。谷津川は駐輪場の下を通り、金沢文庫駅を抜けて、西柴中学校の先まで続く、全長1900mほどの川である。

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宮川の上を京浜急行が通過する。

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川沿いに京浜急行の金沢検車区があり、点検のため、電車が頻繁に出入りしている。

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右岸にはイオン、左手公園を進むと金沢図書館がある。先に見えるのは新瀬戸橋で、通っているのは横須賀に向かうメイン道路、横須賀街道だ。

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新瀬戸橋のたもとには宮川水質測定局が置かれ、横浜市はホームページで測定結果を毎月公開している。

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新瀬戸橋を抜けた左岸に「姫小島(ひめこじま)水門」(復元)がある。 新田開発のため、江戸時代中期の天明年間に建設された汐除用水門だ。海水が水田に流れ込まないようにする水門で、現在の新瀬戸橋のあたりに2基設置されていた。度重なる水害により破損、冠水の被害を受けたがそのつど復興し、昭和39年(1964)まで現存していた(説明文より)。

 

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姫小島跡(右手の林)。説明文に「その昔照手姫(てるてひめ)がこの島にて松葉いぶしの難に遭いたるを土地の人哀れみ 呼んで姫小島と云う」と書かれている。侍従川に投げ込まれた照手姫が村人に助け出された話は、「横浜の川を歩く 侍従川」でも書いたが、その後照手姫は漁師の妻によって松の木に縛り付けられ、松の葉でいぶり殺されそうになる。またもや観音様の慈悲によって助かるのだが、この事件が起きたのが姫小島だという。

昔、姫小島は宮川の中洲だったらしく、その両脇に姫小島水門が建っていたそうだ。

 

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河口には、しゃれたデザインの瀬戸橋が架かっている。一見するとアーチ橋のような桁橋だ。その先の高架を横浜シーサイドラインの車両がゆっくりと通り過ぎる。望遠で撮影したから近く見えるが、実際は200m以上離れている。

 

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都市的な町並みを流れる宮川だが、河口では漁師町の風情を感じさせてくれる。

ここが宮川の終点だ。

(2020年10月記)