横浜の川を歩く9 消えた川
横浜市の中心地である横浜駅から南太田駅、石川町駅を頂点とするデルタ地帯は、かつて川が縦横に流れる水の町だった。そんな横浜の風景を変える契機となったのが、戦後の急速な都市化だ。陸上の交通整備が急務となり、昭和40年代から吉田川など4本の主要な川が埋め立てられ、鉄道や道路が建設された。その結果、江戸時代に吉田新田と呼ばれたこの地域では、明治以降主な川だけでも7つの河川が消滅した。
①派大岡川、②吉田川、③日ノ出川、④桜川、⑤富士見川、⑥新吉田川、⑦新富士見川である。上の地図に記した赤いラインをご覧いただきたい。他に小松川や名の知られていない水路もあったが、やはり埋め立てられた。
川の位置は、明治24年刊の「横浜真景一覧図絵」をもとにしてグーグルマップに書き込んだが、明治30年に開鑿された新富士見川など、この図絵に記載されていない川などについては、大正2年「最新横浜市全図」をもとにしている。どちらも「横浜市立図書館デジタルアーカイブ 都市横浜の記憶」で公開されている。
今回は、消えた7つの川に焦点を当て、現在の様子と、川の痕跡を探ってみたい。
このコラムは「川の町・横浜」(横浜開港資料館 2007年)のおかげで作成することができた。横浜の発展を見守り、消えていった川や橋について詳しく知りたい方は、この冊子が役に立つと思う。横浜市図書館で閲覧が可能だ。
派大岡川
この川が派大岡川と呼ばれるようになったのはいつか、よくわからない。明治以降の地図には一貫して「大岡川」(「大岡川筋」とも)と記載されており、昭和39年の地図も同様だ。本来の大岡川と区別するための行政上の呼称かもしれない。
江戸初期の吉田新田開発にともない入海が埋め立てられたとき、防潮堤によって海と隔てられた巨大な溜め池ができた。これが派大岡川の初期形態である。当初は、流れ込んだ海水を抜く役割があったのかもしれない。その後物資の運搬や増水対策のために利用された。
戦後の都市化に伴う人口の増加・交通量の増大に対応するため、昭和34年(1959)に現JR根岸線の建設が始まった。線路は派大岡川の上を並行するので川の一部埋め立てが開始され、川幅が狭くなった。引き続き高速道路や市営地下鉄の建設が決定し、工事が始まったことにより、昭和52年(1977)にすべて埋め立てられ、派大岡川は姿を消した。
①西の橋
中村川に架かる橋。JR石川町駅から200mで、元町商店街や中華街にも近いのに裏通りの印象がぬぐえない。川の上を首都高速道路が通り、空が見えないからだろう。中村川は、この橋の下流から堀川と名前を変える。派大岡川もここが起点であり、川の町横浜にとって重要な橋だ。
今架かっているのは関東大震災後の大正15年(1926)に建造されたものだが、明治26年(1893)建造の西の橋が、中村川の南区役所付近に移設され、人道橋「浦舟水道橋」として活躍中である。
西の橋の中村川寄りを起点とする派大岡川は、現在の首都高狩場線との分岐から横羽線と軌を一にして関内駅方面に流れていた。
②湊橋
橋の場所から関内方面に目を向けると、右手に横浜スタジアム、左手には旧横浜市役所が見える。首都高速道路横羽線は、横浜市立港中学校のあたりから地下に入り、派大岡川の流路を走り抜けている。青いネットの下が横羽線だ。
③吉田橋
かつて横浜で最も重要な橋だった。横浜は1859年(安政6年)に開港したが、外国人居留地を派大岡川の海側に設定し、吉田橋を築いてここを関門とした。この地域を「関内」と呼ぶのは、このことに由来している。
明治2年(1869)には日本最初のトラス式鉄橋として生まれ変わり、以来長く「鉄の橋」として親しまれたという(「川の町・横浜」)。現在の橋は5代目だが、トラス式鉄橋のデザインが使われている。
④派大岡川終点
下を流れるのは大岡川だ。ここが派大岡川の終点であり、向こう岸は桜川の起点でもある。
吉田川・新吉田川
横浜市営地下鉄の関内駅~阪東橋駅間は、大通公園の地下を走っている。ここはかつて吉田川と新吉田川が流れていた。明治6年(1873)に吉田新田の南一つ目沼約7万坪の埋め立てが完成したが、この事業と並行して日ノ出川、吉田川、富士見川が開鑿された。明治7年に作成された「第一大区横浜全図」には、これらの川が記載されている(「川の町・横浜」)。
「川の町・横浜」など公的な文献では、逢来橋から千秋橋まで(地図の②から①)を吉田川、そこから上流の中村川③までを新吉田川としている。新吉田川は明治29年(1896)に完成しているが、明治期に発行された地図を見ると、明治7年以降すでに上流まで開通しているように描かれている。この違いがよくわからないので、このコラムでは吉田川と新吉田川をひとくくりにして記述することにした。
川の終焉はどちらも一緒で、昭和47年(1972)に埋め立てられている。
①吉田川・新吉田川に架かっていた橋のレリーフ
伊勢佐木長者町駅構内の壁面に「橋の詩」と名付けられたレリーフがあり、吉田川・新吉田川に架かっていた橋の銘板が飾られている。
②派大岡川との合流点
派大岡川が流れていた場所から吉田川跡を望む。大通公園石の広場だが、石造りのステージは撤去され、現在はロダンの彫刻が飾られている。
同じく大通公園水の広場
③新吉田川と中村川の合流点
左が池下橋で、右奥かすかに見えるのが久良岐橋だ。手前を流れる中村川から分岐し、両橋の間をまっすぐ前方に流れていた。
④首都高速狩場線から阪東橋出口に降りる道路の下を流れていた。今は阪東橋公園になっている。
日ノ出川と富士見川
吉田川・新吉田川と同時期の明治6年(1873)頃開鑿された。日ノ出川は中村川と吉田川をつなぐ全長約600m、富士見川は同じく中村川から吉田川を貫き、現在の中郵便局を通り若葉町あたりまで伸びる760mほどの運河だ。
「なか区歴史の散歩道」(横浜開港資料館)によれば、「日ノ出川と富士見川は排水路としての役割に特化しており、付近の住民たちは汚臭と交通不便とに悩まされていたという」。そして「富士見川は明治29年(1896)に埋め立てられ、日ノ出川は材木業者などの反対で遅れたが、昭和29年(1954)に埋め立てられた」。
⑤翁橋
日ノ出川と中村川の合流地点は、この橋の左手になる。現在の寿町だ。
⑥日ノ出川公園
公園の向こうに紅葉した樹木が見えるが、あそこが日ノ出川と吉田川の合流地点だ。川の跡地5000㎡ほどが、公園としてその名を残している。
⑦富士見川の始点
富士見川は埋め立てられたのが明治の中頃で、そのうえ関東大震災、戦災に遭って再開発されたため川の痕跡は皆無だ。中村川の向こうに見える茶色と白のビルが建っているところが河道になる。
⑧長島橋
画面を横切っている広い道路がかつての吉田川で、富士見川は吉田川と交差してこの先まで伸びていた。写真の左手前、吉田川と富士見川に囲まれた場所に真金町遊郭があった。
新富士見川
新富士見川は、明治30年(1897)、不動産・土木業の名士である伏島近蔵によって開鑿された。彼は新吉田川も工事している。新富士見川は、新吉田川と大岡川を結ぶ全長300m弱の短い川で、埋め立てが昭和48年(1973)と比較的最近だったこともあり、川の跡が再開発されずきれいに残っている。
⑨新吉田川との分岐点
新吉田川の流れていた場所から撮影。ビルの間に空間のあるところが新富士見川の跡だ。現在は青空駐車場と富士見川公園になっている。
⑩大岡川との合流点
桜川
新橋駅-横浜駅(現在の桜木町駅)間の鉄道敷設にあたり、1870年に野毛浦の先を、1本の水路を残して鉄道用地として埋め立てられた。この水路には紅葉橋、錦橋、瓦斯橋、雪見橋、花咲橋が架けられ、1871年に桜木川(のちに桜川(さくらがわ)に名称変更)と命名された。(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
昭和29年(1954)に埋め立てられたが、雪見橋、花咲橋などのバス停に川の名残りがあり、当時を偲ぶよすがとなっている。
当初は、大岡川から石崎川までほぼ一直線に流れていたが、大正になって流路が③から④のルートに変更された。「横浜市立図書館デジタルアーカイブ 都市横浜の記憶」で公開されている第四有隣堂の「大正調査番地入横浜市全図」を見ると、大正5年11月訂正第4版では直線のままだが、大正6年4月訂正第5版と大正8年1月の訂正第7版では直線路と迂回路が併記されている。そして、大正8年10月の訂正第8版では迂回路のみが描かれているから、大正5年頃から桜川を石崎川の上流方面に迂回させる工事が始まり、大正8年10月には直線路の埋め立てまで完了したことがわかる。なぜこの工事が行われたのかを推測してみたい。
初代横浜駅が現在の桜木町駅の場所にあったことはよく知られているが、大正4年には2代目横浜駅が石崎川のほとり、現在「ロワール横濱レムナンツ」マンションが建っているあたりに完成・移転した。敷地内に、駅の基礎遺構が残っている。桜川と石崎川が合流している場所に近いので、2代目横浜駅の建設が直線路を埋め立てるきっかけになったのかもしれない。また、「ちんちん電車 ハマっ子の足70年」(横浜市交通局)によれば、大正5年から8年にかけて高島町停車場をハブステーションとして整備しているようだ。高島町界隈の重要性が増し、直線路の埋め立てにつながったのだろう。その後、関内・桜木町と東海道(国道1号)を一直線につなぐ新横浜通りが建設されることになる。
①桜川の始点
正面にそびえる樹木から左に架かる桜川橋のあたりが川の始まりだ。
もし今でも桜川が流れているとしたら、川からこのような景色を見ることができただろう。緑橋があった場所から、みなとみらいを望む。
②埋め立て後の昭和57年(1982)に架けられた紅葉橋
③大正5年(1916)頃までは、正面にある髙島交番の左を流れ、石崎川に合流していた。
その後、この道路の右側に沿って迂回する流路が築かれていく。
④迂回路は、横浜市環境創造局桜木ポンプ場のある場所から石崎川に流れ込んでいた。石崎橋が架かっている護岸と右側の護岸の構造が違うので、このあたりが合流地点であろう。
(2020年11月記)