横浜の川を歩く18 和泉川

 

和泉川(いずみがわ)は境川水系の二級河川で、横浜市瀬谷区の「瀬谷市民の森」と周辺の湧水が源流である(「いずみ いまむかし」泉区小史発行委員会 平成8年)。総延長が9,510m(「横浜の川」横浜市道路局河川部)だから、境川水系の川としてはいちばん長い。そのうえ源流までを実測すると11km以上あるから、流域すべてをレポートするのはたいへんだ。そこで、源流域とめがね橋周辺、いずみ中央、境川遊水池付近を中心に紹介したい。

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源流その1。瀬谷市民の森は通らず、一里山ゴルフセンターの西を流れる。国土地理院の地図を見ると、この先も300mほど上流まで川が続いているが、途中で涸れているようだ。

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源流その2。一里山ゴルフセンターの東側を抜け、200mほど上流の場所だ。きれいに草が刈られているので、源流というより水路のようだ。

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源流その3。瀬谷市民の森に入り600mほど遡った、旭区に近い場所だ。源流と呼ぶにふさわしい景色である。

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瀬谷区市民の森。「市民の森」とは、昭和46年度からスタートした、横浜市独自の緑地を保存する制度である。緑を守り育てるとともに、山林所有者の協力を得ながら市民の憩いの場として利用されている。令和2年4月1日現在、47か所(約550ha)の市民の森がある(横浜市ウェブページ)。源流付近には、整然と植林された杉が立ち並んでいる。

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三つの源流が合流している場所で、住所は瀬谷区東野77あたり。左から源流1、正面から源流2+3が、この場所で合流し右に流れていく。

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赤関おとなり橋は、瀬谷区宮沢三丁目付近にある木造風の橋だ。お寺で見かける輪廻車のような金属製の輪が親柱に2つずつ、合計8つ取り付けられている。「はまれぽ.com」の記事「お隣?音鳴り?知る人ぞ知る瀬谷区にある音が鳴る橋「赤関おとなり橋」の正体は?」によれば、これは「鳴り車」というもので、中には硬質のプラスチックが入っており、車に使われている金属の種類によって音色が違う。

写真右上の鳴り車は、こんな音がする。

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おとなり橋の向こうは河岸段丘のような丘になっていて、そこに宮沢神明社がある。「新編相模国風土記稿」には、宮澤村の鎮守と記載されている。由緒によれば、寛永年間(1624~1644)に宮沢村の開拓が行われたので、その頃に創建されたのであろう。社殿は安政4年9月の建造(神奈川県神社誌)だから、歴史的建造物だ。

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おとなり橋から300mほど下流には、貯留容量: 48,650m3の宮沢遊水地がある。ここのシンボルが、めがね橋だ。1998年建造で、横浜でも有数の美しい橋である。写真の左下に見える白い植物は、半夏生だ。

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めがね橋から300mほど西、13m登ったところに「宮沢六道の辻」がある。横浜市瀬谷区のウェブページに

6本の道が放射状に延びた場所で、坂東三十三観音札所の星の谷観音と弘明寺観音を結ぶ道の分岐点となっています。六道とは、仏教でいう「地獄道・餓鬼道・畜生道修羅道・人間道・天道」のことで、その別れ道を六道の辻といいます。地蔵菩薩が六道からの救済を行うと考えられていました。

と紹介されている。地図で見ると、放射状の道がよくわかる。

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いずみ中央駅付近の風景。高架を相鉄いずみ野線が走る。

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いずみ中央駅から少し下流に、宮澤家の防風垣がある。泉区のウェブページで、

開発前の和泉川沿いは水田が下流まで続いており、環状4号線方面からの西風も強かったはずです。屋敷の防風垣としていつ頃この「もちの木」が植えられたのか、当主の宮澤弘氏も不明と言います。樹勢から2~300年は経っているでしょう。

と紹介されている。

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開発が進む泉区も、かつては水田地帯だった。当時の面影を偲ばせる場所だ。

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中和田南小学校から赤坂橋を渡った少し先、四ッ谷交差点のそばに第六天神社という小さな神社がある。この神社には酒湧池があり、昔話が伝わっている。

昔、池の近くに孝子がいて、池の水を樽に汲み取って父に飲ませていた。ある日、里人が樽をさげてきた孝子にあった。どこから酒を買って来たのかと尋ねると孝子は、この山奥の池の水が、うまい酒であるので、汲み取って父に飲ませているという。里人は大いに喜んで、大樽に汲み取って金もうけをしてやろうとしたところ、その酒はたちまち、ただの水になってしまった(「いずみ いまむかし」泉区小史発行委員会)。

これが、酒湧池らしい。

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和泉川は、境川遊水地で境川と合流するが、遊水地の東側に「天王森泉公園」がある。ここには、横浜市認定歴史的建造物である旧清水製糸場本館の天王森泉館(てんのうもりいずみやかた)が保存されている。明治から昭和にかけて、和泉川流域には20社の製糸場があった。くわしくは、公園のウェブページをご覧いただきたい。

https://www.tennoumori.net/

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このあたりで、以前キジやヒバリに出会った。これは2015年の写真だが、今でも生息しているらしい。

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和泉川と境川が合流する、境川遊水地公園だ。境川遊水地は、俣野遊水地、下飯田遊水地、今田遊水地の3つの遊水地によって構成され、合わせて約30haの広さを有し、約90m3/sの洪水調節を行うことができる。とにかく広い。周囲を1周すると4.5kmあるのだ。

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境川との合流地点。左が境川で、右が和泉川だ。中央の水門は、ビオトープにつながっている。

(2021年7月記)

 

横浜の川を歩く17 名瀬川

名瀬川(なせがわ)は、境川水系の二級河川だ。横浜市戸塚区名瀬町の戸塚カントリークラブ内を源流とし、横浜新道の上矢部IC付近で阿久和川に合流している。合流地点から名瀬遊水池までの二級河川部分は2,210mで、そこから源流までの約1.2kmは普通河川である。

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名瀬川源流付近の風景。かなり奥まった場所だが、1976年に相模鉄道いずみ野線が開通してから宅地化が進んだ。川の先に見える森に源流があるのだが、戸塚カントリークラブの敷地なので見ることができない。

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名瀬川系遊水池。相鉄いずみ野線の開業にあわせ、緑園都市一帯はニュータウンとして整備された。宅地化により土がコンクリで覆われると、豪雨時に雨水が大量に流れ込んで川が氾濫する危険があるため、ニュータウンを開発した業者の責任で遊水池が設置されている。緑園都市には「子易川系遊水池」と「名瀬川系遊水池」があるが、管理者は横浜市ではなく、開発業者の相鉄不動産だ。二つの遊水池の貯水量を合計すると101,139m3で、25mプール約207個分になる。名瀬川の下流には、横浜市が整備した「名瀬川遊水池」もあって、名前が似ているからちょっとややこしい。

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もうひとつの源流で、こちらも戸塚カントリークラブ内から流れ出している。「名瀬町小川アメニティ」として、横浜市が整備した。

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山すそに沿って流れる川の横には遊歩道が整備され、右手にはトウモロコシ畑が見える。

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サワガニを発見した。このあたりにはホタルも生息していて、6月ごろ西蓮寺付近で見ることができるらしい。

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左が名瀬川で、右から名瀬町小川アメニティーの流れが合流している。名瀬川の左には名瀬川遊水池(2期工事分)があり、増水した水が流れ込むようになっている。河口からここまでが二級河川部分で、遊水池は横浜市の施工・管理だ。

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栄橋から、名瀬川遊水池の1期工事分をのぞむ。1期工事は昭和63年度、2期は平成17年度に完成した。合計の貯水量は29,400m3である(横浜市web 横浜市の総合治水対策)。

栄橋には水位計とカメラが設置されており、横浜市のウェブサイトから常時確認することができる。

水位観測地点詳細情報(現在)

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白神社は、新編相模国風土記稿に「白明神社」の名で、名瀬村の鎮守と記載されている。珍しい名前だが、神奈川県神社庁のウェブページによれば、「白神社という名前は、当町松窪という所に大きな白蛇が居て、永年に亘り農地を荒していたので、村人は水神が白蛇に変じて戒め給うものと悟り、そのみたまを奉斎したのが創祀だと伝えられている」そうだ。

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擁壁の水抜き穴から伸びた雑草が風にあおられ、その跡が円形の筋になっている。これを雑草ワイパーと名づけてみた。2021年5月に世間を騒がせた、ニシキヘビ脱走事件の舞台がこのあたりだ。

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モツゴがたくさん泳いでいた。

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横浜新道の上矢部IC付近で、左から流れてきた阿久和川に吸収される。ここが名瀬川の終点だ。

(2021年6月記)

 

横浜の川を歩く16 阿久和川

阿久和川(あくわがわ)は境川水系の二級河川だ。瀬谷区三ツ境付近を源流として泉区・戸塚区と3つの区をめぐり、柏尾川に至る延長5,510mの川である。主な支流として名瀬川(なせがわ)と子易川(こやすがわ)が知られているが、今回のレポートでは子易川をあわせて報告し、名瀬川については後述したい。

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相模鉄道三ツ境駅にほど近い、4本の道路が集中する場所。「瀬谷の史跡めぐりガイドブック」(瀬谷区役所地域振興課:2019年発行)によれば、かつて三ツ境駅の南側に阿久和川源流の鎌取池があり、池の全長約291m、幅は約42mだったと書かれている。埋め立てられた池の場所は特定できないようだが、私は上に掲載した写真のあたりが鎌取池跡ではないかと思う。

下の図をご覧いただきたい。これは、国土地理院の地図で、標高差に陰影をつけてある。凹んでいる部分を水色で囲い計測すると、資料に記された池の広さとほぼ合致するのだ。くねくねと並行する2本の道路が、鎌取池の境界線だったのではなかろうか。

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鎌取池(かまとりいけ)の由来については、昔話が伝えられている。池のまわりの草を刈っていた若者の夢に娘が現れ、草を刈られては困るから鎌を預からせてくれというので、鎌を渡すと娘は消えてしまった。この娘は池の主である大蛇の化身だった。というお話で、横浜市瀬谷区のウェブページにも掲載されている。

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横浜市の公共下水道台帳図「だいちゃんマップ」を見ると、三ツ境駅方面から雨水管を通って流れてきた川は、この場所で地上に顔を出す。400mほど下流でふたたび暗渠に入り、1.5km先の熊野神社を過ぎたところで、やっと川らしくなる。

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阿久和川(暗渠)から300mほど東に離れたところに、旧大岡家長屋門がある。泉区から移築された安西家母屋とともに長屋門公園として整備され、市民に親しまれている。建造当初、二階は蚕室として使用されており、付近には2社の製糸場があった。養蚕が盛んだった明治期の繁栄ぶりを偲ぶことができる(「瀬谷の史跡めぐりガイドブック」瀬谷区役所地域振興課:2019年発行)。なお、「ガイドブック」には明治17年築と書かれているが、横浜市の歴史的建造物一覧では、建築年代を明治20年(1887)としている。 

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阿久和熊野神社は、平安時代からこの地に祀られていたと伝承される、由緒ある神社だ。明治6年(1873)に建てられた本殿は見事な彫刻で飾られ、例大祭では湯立神楽が奉納される。昭和9年(1934)には神楽殿も建立され、昭和30年代まで地芝居が演じられていたそうだ(横浜市教育委員会文化財課)。

暗渠を流れていた阿久和川は、熊野神社横から地上に姿を現す。 

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瀬谷区を過ぎて泉区に入ると川辺の景色が一変し、遊歩道が整備され、公衆トイレも完備されている。区によってずいぶん違うものだ。川の左手にある森は、新橋天神の森公園で、道の先に見えるのは中丸家長屋門だ。2001年に、横浜市の歴史的建造物に指定された。中丸家は阿久和村の名主であり、明治期には戸長を務めた名家で、養蚕業によって発展した。現在もご家族がお住まいなので内部の見学はできないが、外観だけでも一見の価値がある。 

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阿久和川の上を、相模鉄道いずみ野線が走る。源流から4kmほど下ったところだ。 

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親水公園「集いのまほろば」だ。泉区のウェブページで、「中央部には「集いの橋」と名付けられた、立体的に櫓を組んだ円形の木製の橋があります。不動橋から新明神橋までの間に、5つの「まほろば」があり、川沿いには歩道があり、せせらぎの音を聞きながら川辺を散歩するのに最適です。」と紹介されている。 

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階段状に合流している右の川が子易川だ。

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子易川は、相模鉄道緑園都市駅に近い子易川遊水池を源流として、横浜緑園総合高校、岡津中学校、岡津小学校の横を流れて阿久和川に合流する、全長1.3kmほどの川だ。

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 名瀬川が合流する横浜新道矢部インター付近には、水位計が設置されている。ここから600m下流で平戸永谷川、1km先では舞岡川と合流するから、豪雨のときは増水が心配される場所なのだ。

河川カメラ情報地点詳細(現在) 

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この写真は、柏尾の大山道道標だ。

江戸時代には大山信仰が盛んで、主要な参詣道路が12あった。そのうちのひとつが「柏尾通・戸田通大山道」である。横浜市戸塚区柏尾で東海道から分かれ、岡津・長後・用田を経て相模川の戸田で渡船して大山に向かうルートだった(川島敏郎「大山詣り」)。大山道は不動坂信号手前で東海道から分岐するが、ここに不動尊(道標)が建っている。この先から岡津までは阿久和川と並行しているので、あわせて紹介したい。

祠に祀られている道標は、石造りの不動明王像で、正徳3年(1713)の建立だ。「従是大山道」の道標は寛文10年(1670)のもので、他に2基の道標と灯籠、庚申塔がある(横浜市歴史博物館ウェブページより)。

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手作りの「コロナを退治する不動明王護符」が配布されていたので、ありがたく頂戴した。

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右から流れるのが阿久和川で、左は平戸永谷川だ。二つの川が合流したところから柏尾川と名を変え、戸塚、大船、藤沢に至り境川と合流する。

正面に見えるトラス橋は、国道1号戸塚跨線橋だ。大磯町に居住していた吉田茂首相が、東京へ往復するとき戸塚駅踏切が渋滞することに業を煮やして、昭和28年(1953)に建設を決めたバイパス道路である。ワンマン宰相とあだ名された吉田茂の名を取って、ワンマン道路とも呼ばれている。

箱根駅伝2区の歴史に名を残す、東海大学エースの村澤明伸選手に「キツくて泣きそうになった」と言わしめた急な登りがここから始まる。

(2021年5月記)

 

横浜の川を歩く15 舞岡川(まいおかがわ)

舞岡川は、境川水系の河川である。柏尾川との合流地点から舞岡川遊水池(右支川合流点)までの1640mが二級河川、そこから上流へ510m(地下鉄舞岡駅付近)までは準用河川で、その先は普通河川だ。(「横浜の川」横浜市道路局河川部)

横浜市のウェブページでは舞岡公園周辺を源流域としているが、約30ヘクタールの公園なので、広すぎてどこが源流なのかわからない。そこで、河口から上流に舞岡川をさかのぼり、源流を探すことにした。

 

f:id:konjac-enma:20210516104532j:plain正面の建物群は、ブリジストン横浜工場だ。舞岡川は工場の中を流れ下り、柏尾川に合流している。

 

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柏尾川との合流地点から200mほど上流で、国道1号線を抜ける。国道1号といえば、箱根駅伝を連想する方も多いだろう。戸塚駅周辺には箱根駅伝がデザインされたマンホール蓋がたくさん設置されているから、選手たちはこの道を走ると思っている人がいるかもしれない。ところが、箱根駅伝のコースは不動坂から横浜新道方面に向かうため、この道は通らないのだ。

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現在は脇道だが、ここが旧東海道だ。 国道1号から150mほど上流になる。水位計とカメラが設置されていて、ほぼリアルタイムで河川の様子を確認することができる。

水位観測地点詳細情報(現在)

 

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柏尾川との合流地点から1300mほど上流に、神奈川中央交通舞岡営業所がある。神奈川中央交通(通称「かなちゅう」)は、神奈川県民にとって最もなじみ深いバス会社だ。ウェブサイト「Wikiwand」に、神奈川中央交通について詳しく記述されているので、その一部を紹介したい。

神奈川中央交通には「日本初」の取り組み実績がたくさんある。

・乗車時に整理券を取り、降車のとき整理券と照合して運賃を支払う「整理券方式ワンマンバス」を1962年から運行した。

・割増料金を適用した深夜バスを1970年に運行開始した。

・多区間運賃路線でのバスカードを1988年に導入した。

・通勤定期券を所持している利用者と、同伴の家族が土休日に一般路線を利用する際には1回の乗車が現金100円になるという環境定期券を、1997年に導入した。

舞岡営業所は広い敷地を有しているが、2011年のデータでは、189台の車両が登録されている。

 

 

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舞岡川遊水池は、平成25年に完成した地下貯留式の遊水池だ。貯留容量は、55,200m3である。舞岡川右支川との合流地点で、その上カーブしているから、豪雨時には水の勢いが激しい。その場所に取水口を設け、洪水を防いでいる。
河川遊水池は地上に水を貯めるオープン式が一般的だが、この遊水池を地下式にした理由は、隣にある舞岡小学校児童の安全を考慮したからかもしれない。

ゲリラ豪雨に象徴されるように、大量の雨水が短時間で川に流れ込み、河川が氾濫する事態が多数発生している近年、遊水池の役割は重要なものとなっている。

横浜市記者発表資料 令和元年台風第19号等における河川遊水地の貯留実績について

 

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舞岡公園の案内板。舞岡川は横浜市営地下鉄舞岡駅付近で二手に分かれるが、上の流れが舞岡川と記載されている。

 

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道岐橋から舞岡公園入口までの約1.8kmが舞岡町小川アメニティだ。色とりどりの草花が植えられ、メダカが泳ぎ、ヌマエビやカワニナを見ることができる。手入れが行き届いていて、川を愛する地域住民の思いが伝わる。

 

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舞岡八幡宮。長い石段の上から、参詣者を見下ろすように鎮座している狛犬のシルエットが印象的だ。この神社は、由緒によれば乾元元年(1302)に石清水八幡宮を勧請したのが始まりで、村の鎮守として崇敬され、明治6年(1873)に村社となったそうだ。忌竹をめぐらし中央の大釜に熱湯をわかし巫祝が呪言して笹葉に浸した湯を神前と参詣人にまく、湯花神楽神事を4月15日に行っている。

境内は深閑とした雰囲気が漂い、古社の風格を感じさせる。

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狛犬にも、ひと言ふれておきたい。昭和初期に戸塚の石工が制作したものだが、荒削りでありながら、姿がいい 。大正・昭和の狛犬は類型的で面白くないのだけれど、この作品は頭の形や表情が個性的で、狛犬として出色のできばえだと思う。

 

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舞岡町小川アメニティをさらに進むと、しだいに自然の風景になってきた。この場所だけキショウブが群生している。そういえば近年、キショウブを見かけることが多くなった。ウィキペディアによると、

観賞用に栽培されているハナショウブには黄色系の花がないため、その貴重性から重宝されたが、湖沼や河川などへの拡散が問題となっている。環境省は「要注意外来生物」の一種として「栽培にあたっては、逸出を起こさない」「既に野生化している湖沼等があり、在来種との競合・駆逐等のおそれがある場所については、積極的な防除または分布拡大の抑制策の検討が望まれる」として警戒を呼びかけている。

だそうで、見た目が美しいからといって許容できる状況ではないらしい。

 

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川底に丸い穴の目立つ場所があった。この穴を甌穴(おうけつ)といい、ポットホール、かめ穴とも呼称する。水流によってできた浅いくぼみに石が入り、流水や波の渦といっしょになってくぼみの中で回転し、円形の穴を形成する。それが甌穴だ。

 

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舞岡公園に入った。休耕田が野原のようになっている。川幅が狭くなり、水量もずいぶん減った。源流まであと少しだ。

 

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さくらなみ池の手前まで来た。このあたりを源流と見なしていいと思う。池から放流された水と、丘の斜面から流れ込む水が細い流れを形成している。

 

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周囲が150mほどのさくらなみ池は、農業用水として使われているのだろう。池の排水口から水路が築かれ、そのうちの一本が舞岡川とつながっている。

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さくらなみ池の水が、農業用水として水路に流れ出している。

 

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さくらなみ池の向かいにある宮田池はウシガエルのパラダイスだ。たくさんのおたまじゃくしが水草にもたれて身体を休め、モーモーという大人ガエルの鳴き声が、あちこちから聞こえていた。

(2021年5月記)

横浜の川を歩く13 大岡川②(中流域)

 

大岡川は,延長約14kmの二級河川だ。円海山を源流とし、上大岡で日野川と合流して伊勢佐木町、野毛町、桜木町など、横浜市の中心部を通って横浜港に注ぎ込んでいる。

今回は大岡川中流域を、上大岡から出発して栗木まで歩いてみた。

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上大岡駅前商店街の裏を流れる大岡川。菖蒲が群生し、鯉のぼりが下がっている。数年前までは200mほどの流域全面に鯉のぼりがひるがえり、上大岡の名物だったが、ずいぶん規模が小さくなった。

 

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上大岡は山あいの狭い地域で、もともとは捺染業が盛んな職人の町だったが、横浜駅を出発した京浜急行の特急が最初に停車する上大岡駅があり、幹線道路の鎌倉街道が通る交通の要衝だったこともあって、1981年に策定された「よこはま21世紀プラン」で副都心に選定され、再開発が進められた。現在は横浜のベッドタウンとして発展している。

京浜急行上大岡駅の駅メロディは、ゆずの「夏色」だ。上りホームではサビ、下りではAメロが流れる。

 

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大岡川のほとりに鎮座する青木神社。寺社の情報を調べるときにとても便利なサイト「猫の足あと」には、新編武蔵風土記稿等の資料を引用して

青木神社の創建年代等は不詳ながら、もと多々久之郷六箇村(久保、最戸、中里、弘明寺、井土谷)の総社だったといい、<中略>天明6年(1786年)の大岡川の大洪水により、大岡川の流れが変わり社殿が上大岡側に取り残され、今でも大久保2丁目は青木神社の社地だけが川を越して残されたと言われています。

と記されている。

 

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上の地図をご覧いただきたい。大岡川を町の境と考えれば、青木神社の住所は上大岡西であるべきところだが、神社庁のウェブページには、横浜市港南区大久保2-1-11と記されている。つまり、オレンジの実線で区分した町割りになっているのだ。川の氾濫によって流路が移動し、川の両岸に同じ町名が残る事例は、多摩川の二子、丸子などいくつか思い浮かぶが、ここも同じなのだろう。青木神社は大岡川左岸六村の総社だったので、上大岡地区の住民に管理を任せるわけにいかなかったことが、町名の残った理由だと推察する。

 

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青木神社から250mほど上流に歩くと、大岡川日野川の合流地点がある。 右が日野川で、奥から手前に流れているのが大岡川だ。

 

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横浜刑務所前の曙橋から見た大岡川。支流の日野川より流れが細い。 

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横浜刑務所の向かいに鎮座する笹下稲荷神社。地域住民の繁栄と、横浜刑務所の無事安泰を祈願している。小さい祠だが、彫刻に惹きつけられた。木鼻と呼ばれる、柱から飛び出している獅子が、手のひらサイズでかわいい。一見の価値ありだ。

横浜刑務所を撮影していたら、警備員に制止された。建物は撮影禁止なので、紹介できないのが残念である。

 

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笹下釜利谷道路沿いに、鰻井戸がある。案内板の記述を要約すると、

鎌倉時代の話である。北条実時が病に倒れ、療養したが回復しないので如意輪観音に祈ったところ、夢枕に観音が現れ、実時に語りかけた。この地から西北に二里ほど行くと井戸がある。井戸には二匹の霊験あらたかな鰻がいるので、この水を汲んで服用すれば病は治る。実時はさっそく使者をつかわしてこの水を持ち帰らせ服用したら、たちどころに快癒したそうだ。それが、この井戸なのだろう。

北条実時は、金沢文庫を創設した教養人として知られている。

 

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ここは大岡川笹下取水庭だ。大岡川流域を洪水から守るため、日野川大岡川の水を根岸湾に放流する大岡川分水路の途中にある。上の写真で、左から奥の水門に向かって流れているのが大岡川だ。水門は水面の高さまで開いていて、川はゆるやかに流れている。

大岡川分水路については、詳細が神奈川県のウェブページに掲載されている。

 

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手前の大岡川が増水すると堤防を越えて溢れだし、奥に見えるトンネル(大岡川分水路)に流れ込む。

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トンネル側から見た取水庭。大岡川はその奥、左から右に流れている。中央が分水路で、日野川から地下を抜け、大岡川の下をくぐって流れ出している。

 

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大岡川から200mほど離れた高台には、笹下城の本丸跡といわれる場所がある。笹下4丁目にある成就院というお寺の墓地のあたりだ。上大岡までを一望することができ、城を築くのにふさわしい立地だ。笹下城について解説すると長くなるので、横浜市のウェブサイトをご覧いただきたい。

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大岡川支流の左右手川(そうでがわ)との合流地点。鬱蒼としてわかりにくいが、左上から右下に大岡川が流れ、右上から左右手川が合流している。

 

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左右手川は、大岡川との合流地点からわずか450mで暗渠になる。源流は円海山に近い、2km以上離れた峰バス停あたりらしい。

 

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茅葺き屋根がゆかしい栗木(くりぎ)神社。境内の石碑には「徳川時代で村の鎮守として村民の崇敬をあつめ、明治初年に御社号日枝神社と号し、明治初年村社に列せられた」と刻されている。

 

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川の上を走るのはJR根岸線だ。大岡川となじみのある電車といえば京浜急行を真っ先に思い浮かべるが、大岡川と交差しているのは1か所だけ。根岸線は、ここと桜木町駅付近の2か所で交差している。ちなみに、いちばん交差しているのは横浜市営地下鉄で、4か所である。通っているのは、もちろん川の下だ。

(2021年5月記)

横浜の川を歩く14 大岡川③(下流域)

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 大岡川は、延長約14kmの二級河川だ。円海山を源流とし、上大岡で日野川と合流して伊勢佐木町、野毛町、桜木町など、横浜の中心部を通って横浜港に注ぎ込んでいる。

今回は、横浜発展の基礎を築いた旧吉田新田の起点である日枝神社から河口までの、下流域をレポートしたい。

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 左が大岡川、右は分流の中村川だ。吉田新田は大岡川中村川に囲まれた地域で、この分岐を頂点とした釣鐘の形をしている。だから、ここが吉田新田の起点になる。吉田新田については、小学校4年生が学習する教材になっているほど、横浜では有名な歴史遺産だ。

吉田新田については、横浜市南区の南吉田町町内会が作成しているブログでわかりやすく紹介されているが、掲載されている「吉田新田の大堰」がこの場所なのだろう。

吉田新田ができるまで - 南吉田町町内会

 

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大堰があった場所の近くには、日枝神社と堰神社が建立されている。日枝神社は、吉田新田住民の守護と五穀豊穣を祈念して、吉田勘兵衛が寛文13年(1673)に建てた。日露戦争で勝利したことを記念して奉納された立派な狛犬が目をひくが、お約束のコロナマスクをしていた。
堰神社の創建年代は定かではないが、水に関する一切を守護する神として、大堰の傍らに祀られている。堰と咳が同音であることから咳の病に霊験あらたかであるとされ、今でも参拝者が絶えないそうだ。

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僧侶が使用する錫杖(しゃくじょう)を連想させる親柱が印象的な道慶橋。中村川との分岐点から下流へ670mの付近だ。

横浜市関東大震災によって壊滅的な打撃を受けたが、その後昭和2年から4年にかけて、新たな橋が次々と完成した。大岡川下流には13の橋が架けられ、総称して震災復興橋と呼ばれている。8橋が現存しており、道慶橋もそのひとつだ。中村川との分岐点から下流に向かって順に、山王橋、一本橋、道慶橋、太田橋、黄金橋、旭橋、長者橋、宮川橋である。

道慶橋親柱の飾りは1989年に制作された。作者は彫刻家澄川喜一で、彼は一本橋の欄干も設計している。

(出典:web「関東大震災の跡と痕を訪ねて 今に残る震災復興橋(その2)」)

道慶橋の脇に、道慶地蔵尊が祀られている。碑文には、「明暦元年(三百二十年前)相模国久良岐郡太田村字前里耕地(現前里町三ノ六五)にあった渡川口に雲水僧道慶師(出生地不詳)が立寄り附近住民の難儀を見聞し之を救わんと同所に祀ある地蔵尊に草庵をむすび日夜地蔵尊に祈願して托鉢を重ね幾多の困難辛苦の末遂に万治元年独力にて橋を造り両岸住民の難渋を救った。道慶師没後その遺徳を偲び両岸の住民有志相計り同橋を道慶橋と名づけ 師の信仰せる地蔵尊を道慶地蔵尊としてお守りし今日に至る」と刻まれている。

親柱に取り付けられた錫杖頭の輪っか(遊環)を揺すると金属が打ち合い、おごそかな音色が響く。聴く者を敬虔な気持ちにさせる、深い音色だ。

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伊勢崎警察署黄金町交番の屋根の上で猛禽類のマスコットが羽を休め、大岡川を見下ろしている。京浜急行で通勤・通学している方々にはおなじみの光景だ。この鳥は伊勢佐木警察署のマスコットキャラクターで、「イセタカ君」という名前である。神奈川県内の交番でモニュメントが設置されているのは、黄金町交番だけだそうだから、珍百景といえよう。「はまれぽ.com」の「京浜急行線の車窓から見える、ビルの屋上にあるワシの置物の正体は?」という記事ではイセタカ君の由来を深掘りしていて、とても面白い。私も、この記事でイセタカ君のことを知ることができた。興味のある方はぜひアクセスしていただきたい。

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末吉橋親柱の飾り。この橋も復興橋だったが、平成19年(2007)に架け替えられた。大岡川下流域には18の橋が架かっており(人道橋を除く)、親柱装飾にも意匠が凝らされているから、橋のデザインを見て歩くだけでも楽しい。

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黄金橋のたもとには日ノ出湧水がある。案内板には「野毛山の裾野に位置する日ノ出町周辺は、自然の湧き水に恵まれた地域で、明治の初めごろから、湧き水を利用した民間の給水業者が活躍し、横浜港に寄港する船舶に飲料水を提供していたと言われています」と書かれている。

野毛山の標高が47.3mというと低い印象だが、裾野が0m地帯だから、それなりの高さがある。周辺の高台も含めると1.5km×1.5kmもの広さがあり、その保水力はかなりのもので、山の反対側にあたる掃部山(かもんやま)からの湧水は「ぶらタモリ」でも紹介された。蒸気機関車や船舶用の水としても使用され、「横浜の水は赤道まで行っても腐らない」といわれたそうだ。

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大岡川は桜の名所としても知られている。遠くに見えるのは長者橋で、復興橋のなかでもひときわ美しいアーチ橋だ。

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 大岡川からは少し離れるが、長者橋と旭橋の中間点から70mほど伊勢佐木町方面に進むと、清正公堂がある。武勇で知られた加藤清正は開運の守護神(勝負の神様)として庶民の崇敬を集めており、野毛の場外馬券売り場から近いこともあって、競馬好きの聖地として知られている。「開運 勝馬」の看板が勇ましい。

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吉田新田を開墾したときに掘られた井戸が復元されている。京浜急行日ノ出町駅を降り、長者橋を渡った大岡川のほとりから神奈川銀行、清正公堂などがある一帯は、吉田勘兵衛の邸宅があったところで、この井戸は、その中央付近に掘られていた。200年にわたって、付近住民の飲料水となっていたそうだ。

第二次世界大戦で日本が敗れたあと、この場所は進駐軍に接収され、井戸も埋め立てられた。この井戸は、平成20年に復元されたものだ。

大岡川の対岸には、股旅物(またたびもの)の小説家として有名な長谷川伸の記念碑がある。若い方はご存じないかもしれないが、「一本刀土俵入」「沓掛時次郎」「瞼の母」「関の弥太っぺ」などの作品群は、舞台はもとより映画化され歌謡曲でも歌われ、昭和世代の人たちにはよく知られていた。上記の4作品は小林まこと氏がマンガ化し、講談社から出版されている。

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野毛の都橋商店街ビルを、大岡川方面と道路側から撮影した。

大岡川に沿って弧を描いた独特な形の建物で、平成28年(2016)、横浜市の歴史的建造物に認定された。戦後建築物の登録第1号である(「横濱新聞 33号」横浜市都市整備局都市デザイン室)。神奈川県立音楽堂や旧横浜市役所などの有名な建物をさしおいて登録されたあたりに、横浜市のこだわりを感じる。現在も、約60の店が営業し、野毛の名物となっている。

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横浜を代表する野毛商店街も、午前中は人通りがまばらだ。昼間から焼酎片手に、おじさんが焼き鳥をくわえながら競馬中継を見ているというイメージが強いが、最近は若者の街に様変わりしているらしい。

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桜木町駅を発車し、関内駅に向かう根岸線電車が川の上を通っていく。

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大江橋から河口を望む。桜木町歩道橋と弁天橋が見える。右岸の巨大なビルは、横浜市役所だ。関内の旧庁舎から2020年に移転した。

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市庁舎横の歩道からは、ランドマークタワーが見える。この付近にはワシントンのポトマック河畔から里帰りしたシドモア桜、横浜銀行集会所建物基礎、石造りの下水口、石積み護岸、航路標識管理倉庫基礎など、たくさんの歴史的遺物などを見ることができる。

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北仲橋からの眺め。大岡川は左右に分かれているように見えるが、この北仲橋が大岡川の終点であり、ここから先は海である。左の分岐は汽車道の第一号橋梁の下を通って国際橋、女神橋の先から横浜港に注ぐ。右は万国橋、新港橋を抜けて、豪華客船などが停泊する大桟橋に至る。

写真の右端には、2021年の4月から運行を開始するロープウェイが見えている。桜木町駅からワールドポーターズまでを約5分でつなぐ。水面に浮かぶバスのような乗り物は、みなとみらいの景色を陸と海の両方から楽しめる水陸両用バスだ。

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汽車道にはレールが残されている。桜木町駅の手前から分岐して横浜港駅まで続いていた廃線路をそのまま利用し、公園として整備した。ナビオス横浜をくぐった先に見えている赤レンガ倉庫の横に、横浜港駅があった。

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一般的には、ここが大岡川のいちばん下流と認識されている。2021年3月31日に全面開通した女神橋が見える。歩行者専用の橋だ。

当初は2020年7月の開通を予定していたが、橋桁が低くて観光船などが通れないことが判明し、橋をかさ上げしてスロープなどを作り直したため完成が遅れた。名前の由来は、正面に見えるヨコハマグランドインターコンチネンタルホテルの最頂部に飾られた女神像にちなんでいる。(ヨコハマ経済新聞2021.3.31)

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女神橋から上流を撮影した。前面にかかる橋は国際橋だ。ランドマークタワー、観覧車、帆船日本丸などが一望にできる、港ヨコハマを象徴する場所だ。みなとみらいの名物企画「ピカチュウ大量発生チュウ」では、観覧車がピカチュウになった。

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客船ターミナルのぷかり桟橋と横浜ベイブリッジ、そして土木遺産の横浜ハンマーヘッドクレーンが見える。

大岡川は観光地ヨコハマの中心部を流れているので、見どころ満載だ。ごくかいつまんで紹介したが、それでも長いレポートになってしまった。このへんで終了としたい。

(2021年4月記)

 

 

横浜の川を歩く12 大岡川①(源流域)

地図にのある場所をクリックすると、写真が表示されます。

 

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大岡川は、延長約14kmの二級河川だ。円海山を源流とし、上大岡で日野川と合流して伊勢佐木町、野毛町、桜木町など、横浜市の中心地を通って横浜港に注ぎ込んでいる。

見どころの多い川なので何回かに分けて紹介するが、今回は源流域をレポートする。

上の写真は、「大岡川源流域」の表示杭が立っているあたりだ。このへん一帯は入り組んだ谷に囲まれており、幾筋もの小さな流れが集まって大岡川の源流をなしている。

 

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細い流れが集まり、少しずつ水量を増していく。

 

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おおやと広場。このあたりは「大岡川源流域小川アメニティ」で、ところどころ休憩できる場所がある。

 

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アブラハヤがたくさん泳いでいた。

 

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大岡川円海山が源流とされているが、金沢自然公園のしだの谷からの流れも、遊水池を介して大岡川に流れ込んでおり、ここも源流のひとつといっていいだろう。

 

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シダの生い茂る「しだの谷」からの流れは、横浜横須賀道路釜利谷ジャンクションの下を通って遊水池に続いている。

 

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遊水池からの開口部。ここから先の流れは、源流と呼ぶにふさわしい趣がある。

 

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小川のほとりにはスミレが群生し、歩く人の目をひきつける。

 

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右は円海山からの源流で、左が遊水池からの流れ。ここが合流地点だ。

 

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椿の向こうに、横浜横須賀道路の高架が見える。

 

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「氷取沢(ひとりざわ)小川アメニティ」の遊歩道。

 

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小川アメニティを抜けると、開けた場所に出る。氷取沢農業専用地区で、市民菜園などもある。菜園の奥に、トイレが設置されている。秋にはコスモスが咲いて、華やかな景色になる。

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円海山を望む。山桜やソメイヨシノが満開だ。

 

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農地のあたりから、護岸が整備されている。右の建物は、氷取沢農業専用地区のための、かん水施設だ。

 

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氷取沢神社の社殿側から、表通りの笹下釜利谷道路を望む。大岡川は、神社の境内を右から左に流れていく。

氷取沢(ひとりざわ)という耳慣れない地名には、特別ないわれがあるのだろうか。江戸時代に著された「新編武蔵風土記稿」の編者も興味を持ったようで、くわしく考察している。煩雑な記述なので、わかりやすくまとめてみた。

「氷取沢村は、往古には長沢村と呼ばれていた。村内宝生寺の僧が話すところによれば、後醍醐が天皇であった年の6月(旧暦なので、真夏だ)に深山から氷を取って北条高時に献上したところ、高時はこれを喜び、村の名を氷取沢村に改めたそうだ。しかし、この説には信憑性がない。なぜなら、後醍醐天皇より100年ほどさかのぼる吾妻鏡の建暦3年9月22日条に「火取沢」の記述があり、この地はすでに火取沢と呼ばれていたのだ。火と氷は音訓が同じなので、両方の漢字が適宜用いられていたのだろう」と書かれている。

ウェブサイト「はまれぽ.com」のレポート「磯子区氷取沢町の名前の由来は?」では、かつてこの辺りでは砂鉄が取れたため鍛冶場があり、火取沢の“火”はこのことに関係しているという説を紹介している。

いずれにしても氷取沢の由来は、伝承としてとらえておくのが無難だろう。

 

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氷取沢神社の参道前には、笹下釜利谷道路が通っている。港南区上大岡と金沢文庫金沢八景方面をつなぐ幹線道路だ。大岡川は、この道を縫いながら流れていく。

ここから先の上大岡までは、「横浜の川を歩く13 大岡川②」でレポートしたい。

(2021年3月記)